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FENDI1985 (会話 | 投稿記録)
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[[ファイル:OPEC-building-01.jpg|right|250px|thumb|OPECの本部。]]
 
1950年代後半、[[石油]]産業の改革に関心が強かったベネズエラ大統領{{仮リンク|ロムロ・ベタンクール|en|Rómulo Betancourt}}の意向を受けた鉱山炭化水素大臣{{仮リンク|ペレス・アルフォンソ|en|Juan Pablo Pérez Alfonso}}は、南米と中東の石油産出国を団結させる協定を構想する。
 
1959年2月、石油を[[寡占]]していた[[国際石油資本]](メジャー)が、産油国の了承なしに[[原油]]公示価格の引き下げを発表すると、これに強い不満を抱いた産油国は[[アラブ連盟]]第1回アラブ石油会議を[[カイロ]]にて開催して、国際石油資本に対して[[原油価格]]改訂時の事前通告を要求するが受け入れられなかった。
 
その会議の際に、ペレス・アルフォンソは[[ジャーナリスト]]の{{仮リンク|ワンダ・ジャブロンスキー|en|Wanda Jablonski}}の仲介でサウジ・アラビアの石油鉱物資源大臣{{仮リンク|アブドゥッラー・アッ=タリーキー|en|Abdullah Tariki}}と会談して、自分の考えていた協定について合意を求めた。石油メジャーが廉価で大量の原油を産出していたため、産油国の利益が少ないと考えていたタリーキーは、その求めに応じて合意した。後日、カイロにアラブの石油産出国の代表者を呼んで、その協定についての非公式な会合を開き、その非公式な協定について各国の署名を得た。