「国民国家」の版間の差分

 
== 国民国家と国民的アンデンティティ ==
国家の住民を、「国民」にまとめあげる際、重要な要素となったのが「[[民族]]としての[[アイデンティティ]]」であった。国家の一員としての帰属意識(国民的アイデンティティ)の獲得を促したのが、[[工業化]]による富や社会構造の変動、[[言文一致運動]]とそれを担った娯楽の発展、[[メディア (媒体)#マスメディア|マスメディア]]の誕生、[[義務教育]]等々による[[国語]]の定着などである。また、多くの場合は時期をほぼ同じくして、[[歴史]]が国民に共有されたこと、[[経済圏]]が統一されて[[国民経済]]が確立したことが、その促進要因として挙げられる<ref group="注釈">ドイツの国民[[経済]]確立においては、[[1834年]]に発足した[[ドイツ関税同盟]]の果たした役割が大きい。また、[[マシュー・ペリー]]来航後の[[幕末]]期の日本で[[攘夷運動]]が起こり、それが倒幕運動へ転換していったことは、江戸時代の日本では[[東廻海運]]や[[西廻海運]]など国内航路の整備によって、遠隔地商業がさかんとなり、各地域がたがいに経済的に深くむすびついて国民経済の様相を示していたからであるという指摘がある。[[#岡崎・佐藤|岡崎・佐藤(2000)]]</ref>。
 
[[ファイル:Meiji tenno1.jpg|130px|left|thumb|[[明治天皇]]]]
日本では、[[明治維新]]によって、日本列島に[[大日本帝国]]という[[国民]]国家が成立した。それまで[[幕藩体制]]下では民衆はまず直接の統治者である[[藩]]を国(クニ)として意識していた。それまでは[[幕府]]による統一はあっても中央集権は緩やかであり、藩をまたぐ民衆の移動が制限されていたので言葉や[[文化]]、政治の違いも大きく、民衆は「日本国民」という意識が稀薄であった。そうした状況を改め、西欧諸国に対抗するべく[[明治政府]]は[[一君万民論|一君万民]]を唱え中央集権化を進めることで地方較差を薄め、「日本国民」としての意識を広めていく必要があった。しかし、西欧的な「国民」という概念は当時の日本人にとって抽象的であり、民衆に浸透させることが困難であると危惧した明治政府は、当時の民衆にもわかりやすいように、万民が等しく天皇陛下の臣(臣民)であるというように広めた。
 
[[宮台真司]]は、「[[幕藩体制]]下では『クニ』とは藩のことで、[[庶民]]レベルには『日本』という概念がなかった。だから、庶民レベルでいったんは忘れられていた『[[天皇]]』を“共通の父”としてもち出し、『一君万民』のフレームによってクニとクニの対立を忘却させ、一つの国民国家として融和させた」と述べている<ref>宮台・宮崎(2003)</ref>。また、[[宮崎哲弥]]は「[[マスメディア]]は国民国家の要であり、特に[[テレビ]]は、日々刻々『国家なる幻想』を産出している装置である」と指摘している<ref>宮崎(1998)</ref>。
 
「国民国家」形成過程においては、[[国民]]は一般に、[[国旗]]の掲揚や敬礼、[[国歌]]斉唱、使用する[[文字]]や言葉の標準化などの統制を通じて、国民的アイデンティティを形成していく<ref name=shimizu/>。
 
== 国民国家のはらむ問題 ==
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