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[[ファイル:Duc de Berry.jpg|thumb|right|ベリー公ジャン1世]]
'''ジャン1世'''('''<span lang="fr">Jean I<small><sup>er</sup></small></span>''', [[1340年]][[11月30日]] - [[1416年]][[3月15日]])は、[[ベリー公]]および[[オーヴェルニュ地域圏|オーヴェルニュ]]公(在位:[[1360年]] - [[1416年]])、[[ポワチエ|ポワティエ]]伯(在位:[[1357年]] - [[1416年]])。「華麗公」(''<span lang="fr">le Magnifique</span>'')と呼ばれる。[[フランス王国|フランス]][[フランス君主一覧|王]][[ジャン2世 (フランス王)|ジャン2世]](善良王)と妃であった[[ボヘミア王国|ボヘミア]][[ボヘミア君主一覧|王]][[ヨハン・フォン・ルクセンブルク|ヨハン]](盲目王)の王女[[ボンヌ・ド・リュクサンブール|ボンヌ]]の三男。兄にフランス王[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]](賢明王)と[[アンジュー]]公[[ルイ1世・ダンジュー|ルイ1世]]が、弟に[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ]][[ブルゴーニュ公一覧|公]][[フィリップ2世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ2世]](豪胆公)がいる。
 
== 生涯 ==
[[1357年]]、ジャン1世が最初に[[アパナージュ]](分邦国)として与えられたポワティエは、前年([[ブレ1356年]])の[[ポワティニ・カレー条約エの戦い]]の結果で父が[[イングランド王国|イングランド]]に渡るこ大敗して捕虜となりポワティエも占領され、名ばかりのポワティエ伯ってしまったため同年に長兄シャルルがベリーとからオーヴェルニュの隣接地域から同等の収入が見込まれる南フランスの[[ラングドック=ルシヨン地域圏|ラングドック]]執政の立場で与えられた。また、オーヴェルニュは本来アパナージュとして与えられたものなので、男系が断絶した場合には王領に編入されるはずであったが、本来アパナージュ設定ではない[[ブルボン家]]の家領もオーヴェルニュと共に王領に編入することを男系が断絶した場合の条件として、娘[[マリー・ド・ベリー|マリー]]の結婚相手[[ブルボン公]][[ジャン1世 (ブルボン公)|ジャン1世]]への相続が認められた。
 
だが、実際はイングランドの虜囚である父の身代金捻出のためラングドックへ赴任したに過ぎず、地元の農民反乱や貴族の紛争に巻き込まれ、住居を転々としつつ自治都市や貴族から金をかき集め、[[1359年]]に[[アルマニャック]]伯[[ジャン1世 (アルマニャック伯)|ジャン1世]]の娘ジャンヌと政略結婚もしている。1360年の[[ブレティニー条約]]の結果ポワティエはイングランドに渡ることになり、ラングドック執政も解任されたが、[[1369年]]からのイングランド領征服事業に乗じてポワティエを回復、[[1375年]]に[[リュジニャン]]を獲得し城の改築や農民移住奨励など復興作業に尽力した。以後も[[ル・クレムラン=ビセートル]]、[[ニオール]]、[[ドンズナック]]、[[モンパンシエ]]などポワティエやオーヴェルニュの都市を買収で手に入れ、[[ブールジュ]]を中心とした領地で支配を固めた<ref>樋口、P70 - P77。</ref>。
ジャン1世は、[[百年戦争]]中のフランス国内の対立を収めるために尽力した。特に甥の[[オルレアン公]][[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|ルイ]]と弟フィリップ豪胆公の間の和平工作を行なった。
 
[[1380年]]に長兄が亡くなり甥[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]が即位すると、次兄のアンジュー公ルイ1世・弟のブルゴーニュ公フィリップ2世(豪胆公)・義兄のブルボン公[[ルイ2世 (ブルボン公)|ルイ2世]](シャルル6世の母方の伯父、ジャン1世の父)と共に幼少のシャルル6世に代わり政権を掌握、ラングドック執政に再任して財産を蓄えたが、[[1388年]]にシャルル6世が親政を宣言すると他の兄弟共々政権から遠ざけられ、翌[[1389年]]に執政を解任された。だが、[[1392年]]にシャルル6世が発狂して統治不能になると豪胆公と共に政権に復帰、[[1401年]]にラングドック執政の地位を取り戻した。それからは領地保全と[[百年戦争]]中のフランス国内の対立を収めるために尽力、甥の[[オルレアン公]][[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|ルイ]](シャルル6世の弟)と豪胆公の間の和平工作を行なった。また、[[1404年]]に豪胆公が亡くなると彼が養育していた[[アルテュール3世 (ブルターニュ公)|アルテュール・ド・リッシュモン]]を引き取り[[ルイ・ド・ギュイエンヌ|ルイ]][[ドーファン|王太子]]の側近に引き立てている<ref>エチュヴェリー、P51、P58、P64 - P65、城戸、P91 - P93、樋口、P17 - P19、P26 - P33、P76、佐藤、P95 - P102、P108。</ref>。
それ以上に、ジャン1世は美術品の蒐集家や芸術家のパトロンとして知られている。[[リンブルク兄弟|ランブール兄弟]]に『[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]』を製作させたほか、さまざまな貴金属・工芸品・彩飾写本を所有していた。コレクションに厖大な財産を投じるあまり、ベリー公領はフランス中で最も税が重い地域になり、さらにジャン1世の歿後相当な額の負債が残されたという。
 
豪胆公の息子で甥[[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン1世]](無怖公)がオルレアン公との対立を継続した際も[[1405年]]に両者を和睦させたが、[[1407年]]にオルレアン公が無怖公の刺客に暗殺されると憤慨して無怖公を糾弾、翌[[1408年]]に一転して彼を政権に呼び戻すが、[[1410年]]にオルレアン公[[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル]]、[[ブルターニュ公国|ブルターニュ]][[ブルターニュ君主一覧|公]][[ジャン5世 (ブルターニュ公)|ジャン5世]]、[[ヴァロワ=アランソン家|アランソン伯]][[ジャン1世 (アランソン公)|ジャン1世]]、アルマニャック伯[[ベルナール7世 (アルマニャック伯)|ベルナール7世]]など大諸侯や姻戚関係にある貴族達と[[ジアン同盟]]を結成した。以後アルマニャック派と名を変えイングランドへ援軍派遣を打診しつつ無怖公らブルゴーニュ派とフランス各地で戦い、[[1413年]]に無怖公が[[パリ]]の民衆暴動で退去した後にパリを奪ったが、[[1415年]]にイングランド軍が乱入し[[アジャンクールの戦い]]でアルマニャック派が惨敗、ルイ王太子が死去して弟[[ジャン・ド・ヴァロワ (トゥーレーヌ公)|ジャン]]が王太子として無怖公に擁立されると、アルマニャック伯をパリへ呼び出し、1416年に75歳で没した。息子に先立たれていたため所領の多くは王領に編入され、[[1417年]]にジャン王太子亡き後に選ばれた[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル]]王太子(後のシャルル7世)はブールジュを根拠地にイングランドと対峙することになる<ref>エチュヴェリー、P65 - P75、P78 - P88、P97 - P98、城戸、P95 - P101、P123、樋口、P41 - P45、P51 - P56、佐藤、P113 - P121。</ref>。
 
それ政治以上に、ジャン1世は美術品の蒐集家や芸術家のパトロンとして知られている。[[リンブルク兄弟|ランブール兄弟]]に『[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]』を製作させたほか、さまざまな貴金属・工芸品・彩飾写本を所有していた。建築にも熱中し17におよぶ城館を手掛け、リュジニャン城やブールジュの教会など改築事業やコレクションに厖大な財産を投じるあまり、ベリー公領はフランス中で最も税が重い地域になり、さらにジャン1世の歿後相当な額の負債が残されたという<ref>樋口、P61 - P70、佐藤、P134 - P135。</ref>
 
== 結婚と子供 ==
ジャン1世は、最初の妃である[[アルマニャック]]伯[[ジャン1世 (アルマニャック伯)|ジャン1世]]の娘ジャンヌとの間に3男2女をもうけた。
* シャルル(1362年 - 1382年)  - モンパンシエ伯
* [[ジャン2世・ド・ベリー|ジャン]](1363年 - 1402年)  - モンパンシエ伯
* ルイ(1364年 - 1383年)
* [[ボンヌ・ド・ベリー|ボンヌ]](1365年 - 1435年)  - [[サヴォイア伯国|サヴォイア伯]][[アメデーオ7世・ディ・サヴォイア|アメデーオ7世]]と結婚、のち後に従兄のアルマニャック伯[[ベルナール7世 (アルマニャック伯)|ベルナール7世]]と再婚。[[サヴォイア公国|サヴォイア公]][[フェリクス5世 (対立教皇)|サヴォイア公アメデーオ8世]]の母。
* [[マリー・ド・ベリー|マリー]](1367年 - 1434年)  - オーヴェルニュ女公。ルイ3世・ド・シャティヨン、ウー伯[[フィリップ・ダルトワ (1358-1397)|フィリップ・ダルトワ]]、[[ブルボン公]][[ジャン1世 (ブルボン公)|ジャン1世]]と結婚
 
2人目の妃はオーヴェルニュ女伯および[[ブローニュ]]女伯[[ジャンヌ2世 (オーヴェルニュ女伯)|ジャンヌ2世]]であったが、彼女との間には子供は生まれなかった。
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==
* ジャン=ポール・エチュヴェリー著、[[大谷暢順]]訳『百年戦争とリッシュモン大元帥』[[河出書房新社]]、1991年。
* [[城戸毅]]『百年戦争―<small>中世末期の英仏関係</small>―』[[刀水書房]]、2010年。
* [[樋口淳]]『フランスをつくった王 <small>~シャルル七世年代記~</small>』[[悠書館]]、2011年。
* [[佐藤賢一]]『ヴァロワ朝 <small>フランス王朝史2</small>』[[講談社]]([[講談社現代新書]])、2014年。
 
== 関連項目 ==
* [[初期フランドル派]]
* [[トリノ=ミラノ時祷書]]
* [[バーテルミー・デック]]
 
{{先代次代|[[ポワティエ伯]]|[[1357年]] - [[1416年]]|―|王領編入}}
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[[Category:1340年生]]
[[Category:1416年没]]
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