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『[[要略]]』によると、[[493年]]([[太和]]17年)に11歳で[[皇太子]]に指定された。<br/>
父帝が[[南斉]]自ら遠征する時に、彼が[[監国]]として都の[[洛陽]]の留守を使命された。<br/>
だが、彼は湿度高い[[河南省|河南]]の気候に辟易しその蒸し暑さに憂鬱となったという。また、父の漢化政策に猛反対の気概が強烈の思想の持ち主だったという。いずれ彼は[[武川県|武川鎮]]の冷涼な気候が恋しいくなり、北方の故地に戻るような構想を練ったという。<br/>
さらに彼は父と違って、[[鮮卑]]風の胡服の愛用を頑固に続けていた。だが、[[外戚]]の[[高道悦]]によって激しく直言されて、胡服の着用を止めるようにさせられた。また、高道悦はこのことを孝文帝に上奏し、彼は父帝の逆鱗に触れて、謹慎されたという。<br/>
このために皇太子は高道悦を激しく怨みかつ憎悪した。[[496年]](太和20年)、側近と謀って[[晋陽|平城]]で、高道悦を召し出して、彼を誅殺した。皇太子の勝手な行動に激怒した父帝は、皇太子に対して杖打ちの刑を喰らわしたという。さらに父を怨んだ皇太子は、ついに謀反を起こしたのである。こうなると皇太子の謀反に怒濤の如く大激怒した孝文帝は、ついに討伐隊を派遣した。皇太子も負けずに、漢化反対派と平城で籠城したものの、やがて平城は陥落し、皇太子とその取り巻きは捕虜となった。こうして、皇太子は洛陽に連行された。やがて父帝から廃嫡され、庶人に落とされ幽閉された。間もなく、高道悦と親交があった御史[[中尉]]・[[李彪]]の讒言で、元恂は父からの勅命により李彪の手によって毒殺されたという。享年16。<br/>