「崇高」の版間の差分

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(判断力批判について)
19世紀のロマン主義以降は崇高はあまり注目されなくなった。[[リヒャルト・ワーグナー]]はベートーベン論『ドイツ音楽の精神』において、自己の音楽とベートーベンの音楽を、美に崇高が優越するそれだとしているが例外的であった。[[アドルノ]]はその『美の理論』で、圧倒的に大いなるもの、圧倒的な力、に対する精神の抵抗が崇高には必要だとしている。しかしその際、カントも同じように捉えているとしているが、それは事実に反していて、カントにとって崇高が抵抗しているのは感覚的興味に対してのみである。
 
しかし、[[ジャン=フランソワ・リオタール|フランソワ・リオタール]]の1994年の著書『崇高論』で取り上げるなど再び議論されつつある。自身のユダヤ主義的崇高観---多様性を限定していく精神のふるまいに対して衝撃を加えていくという挑戦的姿勢のうちに崇高を見る---から[[マルティン・ハイデッガー]]の技術主義を批判したリオタールの姿勢は、結果的にそれによって、同じく技術主義のアメリカ合衆国系の崇高観に対しても批判的に対峙することになった。このリオタールの崇高論をラカンの想像界主義の展開なのだと[[キャサリン・ベルシー]]は見ている。
 
== 参考資料==