「ジラード事件」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
4行目:
当時の[[在日米軍]][[群馬県]]相馬が原演習地(現 [[相馬原駐屯地]])では、実弾射撃訓練が行われていた。演習地は立ち入り禁止措置がなされていたが、近隣住民は[[薬莢]]や発射された後の[[弾頭]]など[[金属]]類を拾って換金することを目的として、しばしば演習地内に立ち入っていた。
 
[[1957年]](昭和32年)[[1月30日]]、薬莢を拾う事を目的に演習地内へ立ち入った日本人主婦(当時46歳)に対して、主婦の背後から[[第1騎兵師団 (アメリカ軍)|第1騎兵師団]]第8連隊第2大隊のウィリアム・S・ジラード特務二等兵(当時21歳、[[イリノイ州]][[オタワ]]出身<ref name=LA20070605>[http://latimesblogs.latimes.com/thedailymirror/2007/06/soldier_kills_w.html Soldier kills woman] Harnisch, Larry, Los Angeles Times June 5, 2007, 英語版では2007年11月27日に引用</ref>)がM1ライフル装着[[グレネードランチャー]]で空薬莢を発射し、主婦が即死する事件が発生した。目撃者の証言から、ジラード二等兵が主婦に「ママサンダイジョウビ タクサン ブラス ステイ」と声をかけて、近寄らせてから銃を向け発砲した可能性があることがわかると、アメリカへの批判の声が高まり社会現象となった。ジラード二等兵が主婦を射殺した時は休憩時間であったことから日本の裁判を受けるべきであると日本側が主張し、アメリカ陸軍が職務中の事件だとしてアメリカ軍事法廷での裁判を主張するなど、アメリカ側からは強い反発もあったが日本の裁判に服することで決着した<ref name=LA20070605/>。<!-- この2箇所のLos Angeles Timesからの出典は、Chichiii 2010年1月22日 (金) 14:03 による、en: Girard incident 13:47, 1 December 2009 の版からの引用ということでしょうか? -->
 
アメリカに住むジラード二等兵の家族が「裁判はアメリカでやるべき」と訴えを起こすが、当局は日本での[[世論]]の高まりを考慮して棄却する。結局、ジラード二等兵は日本で[[傷害致死罪]]で[[起訴]]され、[[前橋地方裁判所]]で行われた裁判で懲役3年・[[執行猶予]]4年の有罪[[判決]]が確定した。
10行目:
ジラード二等兵自身は、その酒癖の悪さや借金癖から兵士仲間からも軽く扱われる存在だった。アメリカ軍を[[不名誉除隊]]した後、台湾生まれの日本人女性と結婚し当年度中に帰国した時も兵士仲間から[[ブーイング]]が起きた。被害者の遺族(夫と6人の子供)には補償金として1,748.32米ドル(2011年現在 13,642米ドル)が支払われたが司法が売買された結果だと日本人の多くが捉え、被害者の夫も「感謝しない」と述べた<ref name=LA20070605/>。
 
なお、ジラード二等兵への処罰を最大限軽く(殺人罪でなく傷害致死罪で処断)することを条件に、身柄を日本へ移すという内容の密約が日米間で結ばれていたことが1991年にアメリカ政府の秘密文書公開で判明した<ref>{{Cite news |title=ジラード事件。農家の主婦が米兵に射殺される。 |url=http://otona.yomiuri.co.jp/history/anohi110130.htm |date=2011-01-30 |newspaper=[[読売新聞]] |accessdate=2014-03-07 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20110202151829/http://otona.yomiuri.co.jp/history/anohi110130.htm |archivedate=2011-02-02}}</ref>。日本の[[外務省]]が1994年11月20日に行なった「戦後対米外交文書公開」でも明らかとなっている。
 
== 脚注 ==