「釐公 (鄭)」の版間の差分

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成公4年([[紀元前581年|前581年]])3月、成公が不在のため、子如(公子班)は新たに庶兄の繻(しゅ)を立てて鄭君とした。4月、鄭の人は繻を殺して髡頑(こんがん)を立てたため、子如は[[許 (春秋)|許]]へ亡命した。5月、[[晋 (春秋)|晋]]は鄭が新君を立てたと聞いて鄭を攻撃し、鄭の子罕(公子喜)の賄賂和平と子然の盟を受けてようやく成公を帰国させた。6月、成公は自分の不在中に新君を立てた者を討ち、叔申(公孫申)とその弟である叔禽を殺した。
 
成公14年([[紀元前571年|前571年]])6月、成公が[[薨去]]したため、[[子罕]](公子喜)が国政を代行し、[[子駟]](公子騑)が行政を担当し、子国(公子発)が[[司馬]]となった。成公の死に乗じて晋の[[寧殖]]が鄭に侵攻した。このとき[[大夫]]の多くが晋に附こうとしたが、子駟だけは反対した。その後、子の惲(うん:髡頑)が立って鄭君(以降は釐公と表記)となった。
 
釐公元年([[紀元前570年|前570年]])6月、釐公は[[単 (春秋)|単]]・晋・[[宋 (春秋)|宋]]・[[衛]]・[[魯]]・[[莒]]・[[邾]]・[[斉 (春秋)|斉]]と会合し、雞沢(晋の地)において同盟した。