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name = 八代城|
pref = 熊本県|
ar_called =松江城、
struct = 輪郭式平城|
tower_struct = 連結式(非現存)|
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{{main|古麓城}}
=== 麦島城 ===
{{main|麦島城}}
[[宇土城]]主となって古麓城を廃した小西行長は、家臣の[[小西行重]]に命じて球磨川の[[三角州]]に総石垣造りの麦島城を築城させた。麦島の地は北西側が大きな入江となっており、後に開削された[[前川 (八代市)|前川]]によって中洲となった。平城の中でも
== 松江城 ==
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城は元和8年([[1622年]])に竣工した。麦島城時代に認められた一国二城体制は継続されたことは、[[一国一城令]]([[1615年]])の中では全国的にも異例のことであった。熊本藩内に2つの城([[熊本城]]、八代城)の存在が許された理由は、南の大藩・[[薩摩藩]]および隣藩・[[人吉藩]]への備えとしてというのが通説であるが、[[島原の乱]]の舞台となった[[天草諸島|天草]]の[[キリシタン]]弾圧の備え<ref>麦島城時代にすでに一国二城体制が特別に許されており、島原の乱を契機とするキリシタン弾圧の備えとは、後付けされたものであろう。</ref>または小西時代に増えた領内のキリシタンへの備え<ref>他方で、加藤時代の慶長年間にキリシタン弾圧と改宗の強制が大規模に進められたのは事実で、熊本加藤藩の負の歴史である。隠れキリシタンは隣藩の相良藩でも多く見られ、隠れキリシタンの墓が各所に残っている。</ref>としてだとか、またこの時期にしばしば現れた異国船への備えとしてだとか、あるいは秀吉恩顧である加藤藩の財政を逼迫させるためだとか、その他に諸説もある。いずれにしろ幕府が特例を認めなければ現在の八代城は存在しなかった。
[[寛永]]9年([[1632年]])6月に忠広が理由不明のまま改易されて[[出羽国]][[出羽丸岡藩|丸岡]]に流されると、正方も城を退去して京都本国寺に隠棲した。この時、城は戸数2,100余人口約1万人で、13年経てもまだ松江城の北西の外郭(北の丸と三の丸の城壁の一部)は未完成のままであった。また本丸以外の区画には多くの手抜きがあり、城壁に
同年10月、[[豊前国|豊前]][[小倉藩]]37万石の藩主だった[[細川忠利]]が肥後熊本藩54万石(鶴崎2万石を含む)へ移封され、12月に熊本城に入城した。忠利の父[[細川忠興]](三斎)は幕府の内命を受けて八代城に入り、北の丸を隠居所として、四男の[[細川立孝|立孝]]を本丸に住まわせた。いずれ自分の隠居料9万5千石を継がせて立藩させることを望んでいたようだが、[[寛永]]18年([[1641年]])に忠利が亡くなり、[[正保]]2年([[1645年]])閏5月に相次いで立孝も若くして没し、二人の子に先立たれた忠興も同年12月に没した。
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松江城(八代城)は輪郭式の平城で、本丸と中心に、南東に二の丸、南西に三の丸、北西に北の丸、北に出丸が、非対称(渦巻き状)に配置され、それぞれ水堀で区切られる。城の正面は東側(ただし大手門は南側にある)で、南の前川と出丸の堀とを結ぶ外堀が東側にだけあり、どんど口(北)、松江口(東)、枡形口(南東)の三つの入口があって、堀と郭の間には整然と区画整備された城下の町並みがあった。外郭と併せて、五郭と堀で城を二重に囲むという構造である。現在、八代市の西側は平地が広がっているが、築城時は干拓前で、不知火海の海岸線ももっと近くにあり、一面干潟であった。日置川(現・水無川)が北の境で外郭の一助になっているが、北西・西方面には特に防御構築物はない。南側は萩原堤と前川が備えとなっているが、北側と東側の外郭には外堀があるだけで、ほとんどの箇所は土塁しかなかった。
{{引用|八代に過ぎたるものが二つある 天守の屋根に乞食の松|細川三斎<ref>『宮地郷土史読本』p.195</ref>}}
松江の天守は加藤正方の渾身の作であり、築城時は本丸の北西隅に4層5階の大天守<ref>外から見ると四層であるが、内面が五層構造のため、地階つきで5層6階、大天守を五層とも表現する。</ref>(高さ11メートル<ref>高さ36尺、東西66尺、南北75尺。</ref>)がそびえ、2層3階の小天守(高さ9.7メートル<ref>高さ32尺、東西29尺、南北43尺。</ref>)と渡櫓で連結していた。忠興が詠んだように大天守は小城に似合わぬ荘厳さであったが、落雷によって焼失し、以後一度も復元されていない。大天守が早くに無くなったので、江戸時代の『八代城郭絵図』ではすでに四角の区画だけが残る姿で描かれている。現在も石垣だけであるが、北西の長方形の大天守台とそれに隣接する小天守台は、立派で美しい勾配の石垣から比較的判別しやすい。本丸の南西隅に二層の月見櫓があり、南東隅の一角は少し張り出した大枡形になっていて、舞台脇櫓・三十間櫓(外様櫓)・宝形櫓が並んでいた。宝形櫓の二階は仏殿であったという。現在、相撲場がある場所には能舞台があった。御門を通ったら正面に見える北東隅にあった三層櫓は大天守なき後は最も高い建物であった。本丸の石垣(の一部)には石灰岩が用いられ、その色から別名「
本丸東口を本門(表枡形門)とし、二の丸と結ぶ欄干橋<ref>八代市役所の真横から入る小さい入口が八代城の本来の正門。欄干橋はもとは木造の太鼓橋であったが、現在はコンクリート製の平坦な橋となっている。</ref>が架けられていて、渡るとすぐに高麗門があり、左手にそびえるのが磨櫓で、そこから少し進み、直角に曲がると北面して頬当御門(頬当門)があり、侵入者が直進できない構造となっている。本丸北口は「埋門」と言い、九間櫓と唐人櫓に挟まれた低い通路を通って裏桝形門(廊下橋門)に至る。これは北の丸とを結ぶ搦手口で、廊下橋が架けられていた<ref>現在は廊下橋はなく、八代宮の北参道神橋がある。</ref>。現在、本丸南側に二の丸と三の丸を結ぶ「二の門」の近くに、[[八代宮]](征西将軍[[懐良親王]]・[[良成親王]]を祀る)に入る車道(神道)があるが、あの橋も南口ももともとはなかった。南側からの入口は、明治時代に本丸内に創建された八代宮の参道として月見櫓と舞台脇櫓の間の石垣を取り壊して造られたものである。
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