「ルートヴィッヒ・ボルツマン」の版間の差分

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[[1887年]]、グラーツ大学学長となる。その後も[[1890年]]に[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]理論物理学教授、[[1900年]]に[[ライプツィヒ大学]]教授の職に就く。
 
[[ジョン・ドルトン]]が提唱した[[原子論]]は当時の科学会では完全に受け入れられておらず、原子論の立場をとるボルツマンは、[[実証主義]]の立場から原子の存在を否定する[[エルンスト・マッハ]]や[[ヴィルヘルム・オストヴァルト]]らと対立し、激しい論争を繰り広げた。そのためもあって晩年は[[双極性障害]]に苦しみ、アドリア海に面した保養地[[ドゥイノ]](現在は[[イタリア]]・[[フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州]])で静養中、家族が目を離したすきに[[自殺]]した。ウィーン中央墓地の14C区に葬られている。その墓石には「S=k. log W」の刻印がある。
 
==評価==