「北条綱成」の版間の差分

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* 綱成は若い頃から武勇に秀で、毎月15日は必ず身を清めて[[八幡大菩薩]]に戦勝を祈願したといわれている<ref>『[[関八州古戦録]]』</ref>。常に北条軍の先鋒としてその無類の強さを見せつけたため、近隣には常勝軍団としてその名がとどろいたといわれる。
* 合戦では、[[朽葉色]]に染めた6尺9寸の[[絹織物|練り絹]]に「八幡」と書かれた旗を指物としていたので、その旗色から「'''地黄八幡'''」と称えられた。これは「直八幡(じきはちまん)」の発音に通じるため「自分は八幡の直流である」というアピールであった。<ref>『[[武者物語]]』上巻</ref>。
* 綱成の「地黄八幡」の旗指物は現在、[[長野県]][[長野市]][[松代町 (長野県)|松代]]の[[真田宝物館]]に現存する。これは、武田氏と後北条氏が対立していた元亀2年(1571年)、綱成が守備していた駿河深沢城を、武田信玄に対し開城して小田原に去った際、城内に放置されていた物である。信玄は「左衛門大夫(綱成)の武勇にあやかるように」と、家臣[[真田幸隆]]の息子・源次郎([[真田信]])に与えたとされる(『寛政譜』巻655)<ref name="gohoujoukasindan" />。
* 少年期には評判の芳しくなかった氏康の代わりとして、北条家当主に擬する動きまであったという。
* 氏康とは同い年であり、義弟でもあったことから、信任は非常に厚く、氏康の名代として外交や軍事の全権を与えられることもあったとされる。