「ラール・クリシュナ・アードヴァーニー」の版間の差分

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[[File:LKAdvani1.jpg|thumb|right|インド人民党の党首として、演説するアードヴァーニー]]
'''ラール・クリシュナ・アードヴァーニー'''({{lang-sd|लाल कृष्ण आडवाणी}} [[1927年]][[11月278日]] - )は、[[インド]]の政治家。元[[インド人民党]]党首。
==生涯==
1927年11月8日、[[カラチ]]生まれ。[[ムンバイ大学]]で[[法学]]の学位を取得後、[[民族義勇団]]に参加。
1965年に、インドに戻り、二人の子を産んだ。      
==政治経歴==
[[カラチ]]生まれ。[[ムンバイ大学]]で[[法学]]の学位を取得後、[[民族義勇団]]に参加。[[1947年]]の[[インド・パキスタン分離独立]]後に、パキスタン領となったカラチから[[ラージャスターン州]]に移り[[ヒンドゥー至上主義]]者が中心となった[[インド大衆連盟]]結党に関わる。その後、大衆連盟は[[インド国民会議|国民会議派1951年]]の反主流派や左翼、シャヤマ地方政党とプラサド・ムカジー([[ジャナタ党Shyama Prasad Mukherjee|英語版]]を結成。ジャナタ)の人民党の選挙勝利秘書を1957年ま[[モラルジー・デーサーイー]]内閣が成立すると、情報・放送大臣を務め
その後、大衆連盟は[[インド国民会議|国民会議派]]の反主流派や左翼・地方政党と[[ジャナタ党]]を結成。ジャナタ党の選挙勝利で[[モラルジー・デーサーイー]]内閣が成立すると、情報・放送大臣を務める。
 
その後ジャナタ党が内部対立で瓦解すると、アードヴァーニーや[[アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー]]などが中心となり[[インド人民党]]を結成。[[1980年]]から[[1986年]]までインド人民党の[[書記長]]を勤めた。人民党のトップは3度務めた。[[1998年]]に人民党が勝利しヴァージペーイー内閣が成立すると、内相・副首相を務めた。人民党は[[2004年]]に下野しヴァージペーイーが人民党党首を辞すると、後任の党首に就任。党首在任時には本来のヒンドゥー至上主義を薄めて支持回復を図ったが、党勢の回復に繋がらず[[2009年]]に党首を辞した。現在は、[[グジャラート州]][[ガンディーナガル]]でまた、候補として選挙を行っている
[[カラチ]]生まれ。[[ムンバイ大学]]で[[法学]]の学位を取得後、[[民族義勇団]]に参加。[[1947年]]の[[インド・パキスタン分離独立]]後に、パキスタン領となったカラチから[[ラージャスターン州]]に移り[[ヒンドゥー至上主義]]者が中心となった[[インド大衆連盟]]結党に関わる。その後、大衆連盟は[[インド国民会議|国民会議派]]の反主流派や左翼・地方政党と[[ジャナタ党]]を結成。ジャナタ党の選挙勝利で[[モラルジー・デーサーイー]]内閣が成立すると、情報・放送大臣を務める。
 
その後ジャナタ党が内部対立で瓦解すると、アードヴァーニーや[[アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー]]などが中心となり[[インド人民党]]を結成。[[1998年]]に人民党が勝利しヴァージペーイー内閣が成立すると、内相・副首相を務めた。人民党は[[2004年]]に下野しヴァージペーイーが人民党党首を辞すると、後任の党首に就任。党首在任時には本来のヒンドゥー至上主義を薄めて支持回復を図ったが、党勢の回復に繋がらず[[2009年]]に党首を辞した。
 
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