「柳宗悦」の版間の差分

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== 朝鮮とのゆかり ==
[[1916年]](大正5年)に[[朝鮮]]を訪問した際に[[朝鮮文化]]に魅了された柳は、[[1919年]](大正8年)[[3月1日]]に[[朝鮮半島]]で勃発した[[三・一独立運動]]に対する[[朝鮮総督府]]の弾圧に対し、「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判した。当時、ほとんどの日本の文化人が[[朝鮮文化]]に興味を示さない中、[[朝鮮美術]](とりわけ[[陶磁器]]など)に注目し、[[朝鮮]]の陶磁器や古美術を[[コレクション|収集]]した。[[1924年]](大正13年)には[[京城府|京城]](現[[ソウル特別市|ソウル]])に[[朝鮮民族美術館]]を設立した。
 
[[朝鮮民画]]など[[朝鮮半島]]の美術文化にも深い理解を寄せ、京城において道路拡張のため[[李氏朝鮮]]時代の旧王宮である[[景福宮]][[光化門]]が取り壊されそうになると、これに反対抗議する評論『失はれんとする一朝鮮建築のために』を、雑誌『[[改造 (雑誌)|改造]]』に寄稿した。これが多大な反響を呼び、光化門は移築保存された。