「中島知久平」の版間の差分

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[[1916年]]([[大正]]5年)中島機関大尉と馬越喜七中尉が、欧米で学んだ新知識を傾けて、[[複葉機|複葉]]の[[水上機]]を設計した。これが横須賀海軍工廠の長浦造兵部で完成され、横廠式と名づけられた。中島は、航空の将来に着眼し、航空機は国産すべきこと、それは民間製作でなければ不可能という結論を得た。これを[[大西瀧治郎]]中尉にひそかに打ち明けたところ、大西も大賛成で、中島の意図を実現させようと資本主を探して奔走した。大西も軍籍を離れて中島の会社に入ろうと思っていたが、軍に却下された。中島の「飛行機製作会社設立願い」は海軍省内で問題となった。中島はこのとき「退職の辞」として、戦術上からも経済上からも大艦巨砲主義を一擲して新航空軍備に転換すべきこと、設計製作は国産航空機たるべきこと、民営生産航空機たるべきことの三点を強調した<ref>草柳大蔵『特攻の思想 大西瀧治郎伝』文春文庫</ref>。
大正6年([[1917年]])[[12月1日]]、既に同年5月には「飛行機研究所」(のちの中島飛行機株式会社)を群馬県[[尾島町]]に創設していた中島は海軍の中途退役を認められ([[予備役]]編入。なお、海軍の機関科は[[大東亜戦争]]中に「[[機関科問題]]」を経て兵科に統合されたので、中島の最終階級は予備役編入後20年以上を経て、「海軍機関大尉」から「海軍大尉」となっていた<ref name="aji1">[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A03023561700?IS_TAG_S5=InfoD&IS_TAG_S15=language&IS_KIND=DetailSummary&IS_TAG_S32=_unitdate&IS_STYLE=default&IS_TAG_S4=InfoD&IS_LGC_S14=AND&IS_LGC_S5=AND&IS_TAG_S2=InfoD&IS_TAG_S12=InfoFolder&IS_LGC_S7=AND&IS_LGC_S3=AND&IS_KEY_S1=%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E7%9F%A5%E4%B9%85%E5%B9%B3%20%E4%BB%BB%20%E5%A4%A7%E8%87%A3&IS_LGC_S15=AND&IS_LGC_S12=AND&IS_TAG_S14=_genreform&IS_KEY_S2=&IS_KEY_S5=&IS_KEY_S12=&IS_KEY_S4=&IS_LGC_S2=AND&IS_LGC_S4=AND&IS_KEY_S3=&IS_LGC_S6=AND&IS_TAG_S7=cat_type&IS_TAG_S1=_unittitle&IS_TAG_S6=data_type&IS_TAG_S3=InfoD&IS_LGC_S32=AND& アジア歴史資料センター 「任商工大臣 海軍大尉正三位勲二等 中島知久平」]</ref>)、同年[[12月10日]]に兄弟で「飛行機研究所」を群馬県[[太田町_(群馬県)|太田町]]に移転した<ref name="shibusawa_p1"/>
 
その後[[立憲政友会]]所属の代議士となり豊富な資金力で党中枢へ登り、新官僚や軍部寄りの革新派を形成して勢力を伸ばした。国政研究会([[昭和]]6年~15年)や国家経済研究所(昭和7年~18年)を設立して学者を招致し、国内外の政治経済状況を調査研究させた。昭和14年([[1939年]])[[3月28日]]には革新同盟という団体を結成して中島の総裁就任を推進した。分裂した政友会中島派の総裁に就任したが、これは長年の間政友会を支配した鈴木・鳩山派への反感から来る周囲の勧めによるものであり、自ら進んでのものではなかった。