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'''安倍 頼時'''(あべ の よりとき)は[[平安時代]]の武将。[[陸奥国]][[奥六郡]]を治めた[[俘囚]]長。[[陸奥国|陸奥]]大掾(陸奥権守とする説がある<ref>[[川尻秋生]]『揺れ動く貴族社会(全集日本の歴史4)』小学館2008年 ISBN 409622104X</ref>)・[[安倍忠良]]の子。孫に[[奥州藤原氏]]の初代[[藤原清衡]]がいる。初名は'''頼良'''(よりよし)。安太夫と号した。
 
== 経歴 ==
[[安倍氏 (州)|陸奥]]大掾(陸奥権守とする説がある<ref>[[川尻秋生]]『揺れ動く貴族社会(全集日本の歴史4)』小学館2008年 ISBN 409622104X</ref>)であった[[安倍忠良]]の息子である。頼良(のちの頼時)の代までに[[奥六郡]]に[[族長]]制の半独立勢力を形成しており、[[11世紀]]の半ばには安倍氏が朝廷への[[租税|貢租]]を怠る状態となった。

[[永承]]6年([[1051年]])には、[[陸奥国|陸奥守]]・[[藤原登任]]が数千の兵を出して安倍氏の懲罰を試みたため、頼良(のちの頼時)は[[俘囚]]らを動員して[[衣川 (岩手県)|衣川]]を越えて国衙領へ侵攻し、鬼切部の戦いにおいて国府側を撃破した([[前九年の役]])。朝廷源氏の[[源頼義]]を新たに陸奥守に任命して派遣するが、頼義が陸奥に赴任した翌永承7年([[1052年]])春、朝廷において上東門院[[藤原彰子]]の病気快癒祈願のために安倍氏に[[大赦]]が出され、頼良も朝廷逆らった関する赦されることとなった。頼良は頼義と[[避諱|名の読みが同じことを遠慮]]して「頼時」と改名した。
 
[[天喜]]4年([[1056年]])、頼義が任期満了で陸奥守を辞める直前、[[多賀城]]へ帰還中の頼義軍の部下の営所を何者かが夜襲したとされ、その[[被疑者|嫌疑人]]として頼義が頼時の嫡子・[[安倍貞任|貞任]]の身柄を要求した([[阿久利川事件]])。頼時は頼義の要求を拒絶して挙兵し、頼義に頼時追討の[[宣旨]]が下った。
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なお、『[[今昔物語集]]』等を根拠として、頼時自身は反乱の首謀者ではなく蝦夷反乱に同調しようとしたとの嫌疑が掛けられたことに伴うものである等の見解が出されている。また[[束稲山]]に桜を植えたという逸話がある。
 
== 脚注 ==
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