「津田信澄」の版間の差分

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信澄は信長の側近としての役割も果たし、[[安土城]]の造営においては総普請奉行である[[丹羽長秀]]と共に普請奉行として工事に携わるなど、織田一門の中では叔父の[[織田信包]]と共に信長から信任されて特別扱いされていた{{sfn|西ヶ谷|p=78}}。
 
織田家では信長の息子である[[織田信忠|信忠]]、[[織田信雄|信雄]]、[[織田信孝|信孝]]や信長の弟の[[織田信包|信包]]に次いでその待遇は厚かったという。[[京都御馬揃え]]の際にも一門衆(御連枝衆)の参加者で信澄は5番目に名前が挙がっており、第5位の序列にあった事が窺える。また、織田氏は一族傍流が非常に多く、信長の年長の実子であっても[[織田信正|信正]]のように冷遇された者もいる中(信正については実在を疑問視する説もある)、2度も信長に背いた弟の遺児が厚遇されているのは、破格の待遇といえた。
 
『信長公記』に名前が登場する回数では一門衆で信長、信忠、信雄に次いで多い。これは作者の[[太田牛一]]が[[右筆]]として仕えた丹羽長秀と相役を命じられることが多かった事情と無関係ではないように思われる(宿将衆では長秀の記述がかなり多い)。対して、信澄を殺害した信孝についての記述は、一門衆が勢揃いする場面以外ではほとんどない。