「ファイズッラ・ホジャエフ」の版間の差分

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'''ファイズッラ・ホジャエフ'''([[ウズベク語]]:{{lang|uz|Fayzulla Ubaydullayevich Xoʻjayev}}、[[ロシア語]]:{{lang|ru|Файзулла Убайдуллаевич Ходжаев}}、[[1896年]] - [[1938年]][[3月13日]])は、[[中央アジア]]の革命指導者、[[ソビエト連邦]]の政治家。[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]]の初代首班。
 
ホジャエフは、[[ブハラ]]の裕福な商家に生まれ、[[1907年]]に[[モスクワ]]に留学した。モスクワでの生活を経て、ブハラの伝統的社会の後進性を痛感し、改革の必要性を認識するようになったとされる。[[1912年]]にブハラへ帰国した後、叔父の[[オスマン・ホジャエフ]]や[[アブドゥラウフ・フィトラト]]らとともに、改革派ムスリム知識人([[ジャディード運動|ジャディード]])らで構成された[[青年ブハラ人]]グループに参加した。
 
[[1917年]]の[[2月革命 (1917年)|ロシア2月革命]]の勃発を受け、[[ブハラ・ハン国|ブハラ・アミール国]]君主の[[アーリム・ハーン]]は改革勅令を発布して、[[臨時政府 (ロシア)|ロシア臨時政府]]への恭順を示した。これを不十分とするホジャエフら青年ブハラ人グループは、ブハラにて反[[アミール]]の示威行動を行ったが、アミール当局の弾圧を受けて、ブハラに隣接するロシア[[租界]]([[カガン (ウズベキスタン)|カガン]]市)に亡命することとなった。