「オランダ総督」の版間の差分

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[[1568年]]に始まる[[八十年戦争]]でネーデルラント各州はフェリペ2世に対し反乱を起こし、やがて北部7州は新たな君主を戴くことなく連邦共和国として独立を果たした。連邦共和国の体制においては、7つの州の議会それぞれが君主に代わって自ら総督を指名した。総督は州の首長として議会を主導し、法の執行を監督し、役職者の任免を行なった。総督の地位は初期を除けばほとんど[[オラニエ=ナッサウ家]]の当主であるオラニエ公、およびその傍系[[ナッサウ=ディーツ家]]の世襲であった。ウィレム1世以来歴代のオラニエ公のほとんどは、連邦の7州の中心的存在である[[ホラント州]]の他4 - 5の州の総督を兼ね、残りの州の総督はウィレム1世の弟[[ヨハン6世 (ナッサウ=ディレンブルク伯)|ナッサウ=ディレンブルク伯ヨハン6世]]の家系であるナッサウ=ディーツ家が占めた。ホラント州とゼーラント州の総督(ウィレム1世以後常に兼任された)は慣習的に連邦議会から陸海軍総司令官にも任命されており、その権力は大きく、実質的に君主に近い存在であった。
 
こうした総督=オラニエ公の権勢に対して反発する勢力もあり、[[イングランド王国|イングランド]]王を兼ねた[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィレム3世]]の総督時代(1672年 - 1702年)を挟んで[[1650年]]から[[1747年]]の間に、2度にわたって主要な州で総督を置かなかった時代がある([[無総督時代]])。しかし[[1747年]]、[[オーストリア継承戦争]]に巻き込まれて[[フランス王国|フランス]]軍の侵攻を受けた連邦共和国は、[[イギリス]]の後押しもあって、[[ウィレム4世 (オラニエ公)|ウィレム4世]]を7州全ての総督に指名し、その地位の世襲を宣言した。この全州総督の地位は[[ウィレム5世 (オラニエ公)|ウィレム5世]]に継承され、[[フランス革命戦争]]の中で連邦共和国が崩壊する[[1795年]]まで続いた。
 
== 脚注 ==
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