「第三次ポエニ戦争」の版間の差分

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残されたカルタゴの領土はローマに併合され、ローマの'''[[アフリカ属州]]'''を形成した。なお、フェニキア人によって建設されたカルタゴ市はローマ軍によって完全に破壊されてしまったため、現存するカルタゴの遺跡はその後[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]が再建させた植民都市時代以降のものである。
 
この戦争でローマが地中海世界の完全な覇者たる傾向はますます強まっていったが、ローマの体制自体が、このような状況に適応しておらず、従来の共和制は行き詰まり、社会不安が急速に増大していくことになる。海外の属州で得た広大な土地や戦争捕虜からなる莫大な奴隷の労働力で大規模農場を経営する([[ラティフンディウム]])富裕層が出現する一方で、海外の安価な農作物がローマ本国の市場に大量に流れ込み、これに対抗できない中小農場経営者の多くが破産し多数の無産市民もまた出現したのである。更に一定の資産を持つ市民が従軍する市民兵によって構成されていたローマ軍にとって、資産を持たない市民の急増は組織的劣化に直結するものであった。こうしてローマの膨張と共に貧富の格差が拡大することでローマの市民社会、及び国家は分裂の様相をみせはじめ、軍の弱体化も顕著になっていく。これに対処せんとスキピオ・アエミリアヌスの義弟(妻の弟達)である[[グラックス兄弟]]は政治改革を目指すも、保守派の反撃によって失敗に終わり(アエミリアヌスも又、グラックス兄弟と敵対する保守派の代表的人物であった)、以降、ローマ人同士の抗争が頻発する混乱期が訪れることになるのである([[内乱の一世紀]])。
 
==現代への影響 ==