「エスペロ船団の戦い」の版間の差分

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|casualties2=駆逐艦1沈没、150から180名戦死
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'''エスペロ船団の戦い''' (Battle of the Espero Convoy) は、[[第二次世界大戦]]中に[[地中海]]で生起した[[海戦]]の一つである。1940年6月28日に、北アフリカへの輸送任務についていた[[イタリア海軍]]の駆逐艦3隻と、船団護衛のため出撃した[[イギリス海軍]]および[[オーストラリア海軍]]の巡洋艦5隻が交戦し、イタリア側が駆逐艦1隻を失った。
 
==背景==
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6月28日、マルタから飛び立った[[ショート サンダーランド|サンダーランド]]飛行艇が[[ザンテ島]]の西約50マイルの場所でイタリアの駆逐艦を発見した。この報告を受け、第7巡洋艦戦隊はイタリア駆逐艦の攻撃に向かった。
 
18時30分<ref name="a">''The Naval War in the Mediterranean 1940–1943'', p.63</ref>(33分<ref name="b">''Struggle for the Middle Sea'', p.33</ref>)、最も南に位置していたリヴァプールがイタリア駆逐艦を発見した。この時、第7巡洋艦戦隊はオライオン、ネプチューン、シドニーとリバプール、グロスターの二つに分かれていた。リバプールは18時33分<ref name="a"/>(36分<ref name="b"/>)に16000メートルの距離で砲撃を開始した。イタリアの駆逐艦は煙幕を張って南西に逃走した。リバプールからの報告を受け取ってもう一つの部隊も戦闘に加わり、5隻の巡洋艦がイタリア駆逐艦を追撃した。エスペロは機関に問題があり高速を発揮できなかった。このとこもあり、バローニ大佐は他の2隻を逃がすようにエスペロを行動させた。エスペロはオライオンに対して雷撃もおこなったが、命中はしなかった。19時20分までにリバプールとエスペロとの距離は12800メートルまで縮まり、被弾損傷したエスペロは20時頃には停止した。
 
トーヴィー中将は日没と弾薬不足のため残り2隻の駆逐艦の追跡は断念した。第7巡洋艦戦隊はこの戦闘でおよそ5000発の砲弾を消費していた。イギリス側の損害はリヴァプールに砲弾が1発命中したのみであった。第7巡洋艦戦隊はシドニーを残しマルタへ向かった。シドニーはエスペロを沈め、その生存者47名を救助した。そのほかに20日後に6名の生存者がイタリアの潜水艦に発見された。なお、バローニ大佐は戦死した。イタリアの駆逐艦2隻は29日に[[ベンガジ]]に到着した。
 
==結果==