「ハーバート・フーヴァー」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
フーヴァーは[[アイオワ州]]ウェストブランチで[[クエーカー]]信者の一家に生まれた。だが彼の親の死後[[オレゴン州]][[ニューバーグ (オレゴン州)|ニューバーグ]]に転居した。
 
[[ファイル:Herbert Hoover in 1877.jpg|thumb|left|120px|幼少期(1877年)]]
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[[キャンパス]]の上流階級気質に反して、余り裕福でない経歴を持つフーヴァーであったが、他の生徒に押される形で彼自身何の知識もない[[学生自治会]]の会計係に選出され、2,000ドルに及ぶ自治会の[[負債]]を拭い去ることに成功した。
 
フーヴァーは[[地質学]]を専攻して、ジョン・キャスパー・ブラネル教授の下で勉強をした。ブラネル教授は彼のために夏休みの間[[アーカンソー州]]の[[オザーク山脈]]で地形の[[地図]]を作る仕事を与えた。彼は同じ研究室にいた、後に妻となる銀行家の娘であるルー(ルイズ)・ヘンリーとそこで出会い、[[1899年]]に結婚し、2人の息子、長男ハーバート(1903年 - 1969年)、二男アラン(1907年 - 1993年)をもうけている。2人とも、[[スタンフォード大学]]を卒業している。
 
[[1895年]]5月、フーヴァーに知識と職業、妻を与えてくれたスタンフォード大学を卒業し、とりわけスタンフォードはアメリカ西部の身寄りのない人にとって家族代わりとなるに相応しい場となったと言われた。
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フーヴァーはチャーチルとルーズベルトがスターリンを連合軍側に引き入れたことは、スターリンが共産主義を広める手助けになったと批判、スターリンはヒットラーと同じろくでなしで、彼ら2人同士を戦わせておけばよかったという意味のことを2011年11月に出版された著書''Freedom Betrayed''で述べている<ref name="nash" />。
 
フーヴァーは後に、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]司令官を解任されたダグラスマッカーサーが、解任指令の後もアメリカへの帰国を渋った際、「アメリカで支持の声が冷めぬうちに帰国するように」とアドバイスしている。この時、結局マッカーサーは解任指令から5日後に日本を離れているが、マッカーサーはこのとき合衆国大統領になることを目指しており、それでフーヴァーのアドバイスに従ったと思われる。
 
=== 第二次世界大戦後 ===