「オーストリア帝国」の版間の差分

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== 概要 ==
[[17世紀]]初頭から続いた[[三十年戦争]]を経て成立した[[ヴェストファーレン体制]]を端緒とし、さらに[[18世紀]]の[[オーストリア継承戦争]]や[[七年戦争]]などによる、政体としての神聖ローマ帝国の形骸化は誰の目にも明らかであった。さらに[[フランス革命]]を受けた[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]][[フランス第一帝政|帝国]]の出現で、中世以来の神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。ハプスブルク家は、事実上の国家を形成していた中東欧に広がる[[オーストリア大公国]]の支配領域([[ハプスブルク君主国]])をもってオーストリア帝国を形成、帝室の勢力圏を再編成した。1822年、君主国は[[神聖ローマフランチェスコ・デ・タシス2世|帝国郵便]]のタクシス家]]に[[ボヘミア]]の国家領[[:en:Chotěšov Abbey|ホティーシャウ]]を108万9200グルデンで売却した。
 
この時期の前半は[[ナポレオン戦争]]とその後の[[クレメンス・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]時代であり、後半は[[1848年]]「[[諸国民の[[春]]」による[[ウィーン体制]]崩壊後の[[フランツ・ヨーゼフ1世]]時代前半である。この時代はドイツ近代国家の模索期で、「[[オーストリア皇帝]]を戴く[[大ドイツ主義]]」か、「[[プロイセン王国|プロイセン王]]を戴く[[小ドイツ主義]]」かで揺れ動いていたが、広大な非ドイツ人地域の分離が前提となっている大ドイツ主義はオーストリアには迷惑千万であり、さりとて自らが統一ドイツから除外されてしまう小ドイツ主義も論外、非ドイツ人地域も包含した中欧帝国構想は時代遅れというジレンマ状態にあった。[[1866年]]の[[普墺戦争]]によりオーストリアは完敗して大ドイツ主義も中欧帝国構想も挫折、最終的にオーストリアは統一ドイツから除外される。また[[1848年革命]]に代表される非ドイツ民族の不満を収拾するため、ドイツ民族に次ぐ大勢力であったハンガリー系([[マジャル人]])に大幅な譲歩を認め([[アウスグライヒ]])を認め、[[1867年]]に[[オーストリア=ハンガリー帝国]](二重帝国)が発足した。
 
== 領域 ==