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こうして日本の有望な若手作曲家となった橋本は、[[文部省]]の命により[[1934年]](昭和9年)から[[1937年]](昭和12年)の間、[[ウィーン]]に留学する。[[エゴン・ヴェレス]]に師事。[[アルバン・ベルク]]の歌劇『[[ヴォツェック]]』上演に接したり、[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]や[[ブルーノ・ワルター]]の演奏を聞く。帰国途中に寄った[[ロサンゼルス]]では[[アルノルト・シェーンベルク]]に師事するなど、積極的に新しい音楽を学んだ。帰国後は日本洋楽界きってのモダニストとして、作曲家・編曲家として活躍。教師としても優れており、[[1933年]](昭和8年)母校の教授に就任。門下には、[[矢代秋雄]]を筆頭に[[芥川也寸志]]、[[團伊玖磨]]、[[黛敏郎]]らがいる。1940年代前半には、『学徒進軍歌』『勝ち抜く僕等少国民』などの軍国歌謡や、[[皇紀2600年奉祝曲]]の「交響曲第1番ニ調」を作曲した。また[[十二音技法]]による創作を試みたりした。
 
戦後は戦時下の行動の責任を取って母校を辞し、『[[朝はどこから]]』などの歌謡曲や、戦火に倒れた人々を追悼するために独唱と管弦楽のための『三つの[[和讃]]』、[[日本国憲法]]の公布を祝う『交響曲第2番』などを発表した。[[1949年]]、[[胃癌]]のため44歳で[[鎌倉]]にて逝去した。
 
== レコード録音 ==