「コザ暴動」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
30行目:
== 背景 ==
[[コザ市]]はアメリカ軍[[嘉手納飛行場]]と陸軍キャンプを抱え、アメリカ軍人・軍属相手の飲食店、土産品店、質屋、洋服店が立ち並び、市民には基地への納入業者、基地建設に従事する土木建築労働者、基地で働く軍雇用員も多かった。事件当時は[[ベトナム戦争]]の最中で、沖縄を拠点に活動していたアメリカ軍関係者の消費活動は著しく、市の経済の約80%は基地に依存、産業構造は[[第三次産業]]に著しく偏向し、特にアメリカ軍向け飲食店([[Aサイン]])は「全琉のほぼ3割を占める286軒」が集中していた。
 
このような経済的助力を受けながらも、沖縄人の間には施政者であるアメリカ軍に対する不満が鬱積していた。その最たるものがアメリカ軍人・軍属による犯罪とそれに対する処分の不十分さである。
 
=== アメリカ軍人・軍属の犯罪 ===
51 ⟶ 49行目:
これに対しアメリカ軍はストのたびに、アメリカ軍人・軍属・家族に特別警戒警報「コンディション・グリーン(特定民間地域への立ち入り禁止)」さらに「コンディション・グリーン・ワン(実質的な外出全面禁止)」を発令<ref>このような処置は一般に「オフリミッツ」と呼ばれ、[[島ぐるみ闘争]]当時から何度となく発令されていた</ref>。これはアメリカ軍人が民間地において不要のトラブルを避けることが表向きの理由だが、実質的にはアメリカ軍相手の沖縄人業者の収入源を絶ち、基地周辺の経済を疲弊させることによって、軍の意に沿わない運動に圧力をかける意図があった。
 
前述のようにコザをはじめとする基地周辺は極端な基地依存経済であったため、自治体の長は全軍労にスト回避を呼びかけ、軍司令官に命令解除を求め陳情を繰り返した。また基地関連業者はAサインバーのボーイを組織、または暴力団を雇い、[[1月20日]]には全軍労本部を包囲するなどスト中の労組員に暴力で対峙した。アメリカ軍支配に対する不満は共通しているはずの沖縄人同士が、アメリカ軍基地を巡り対立する結果となったのである。
=== 毒ガス漏洩 ===
アメリカ軍はベトナム戦争用の兵器として、コザ市に隣接する[[美里村 (沖縄県)|美里村]](現沖縄市)[[嘉手納弾薬庫地区|知花弾薬庫]]などに致死性の毒ガス(主要成分は[[イペリット]]・[[サリン]]・[[VXガス]])を秘密裏に備蓄していたが、[[1969年]][[7月8日]]ガス漏れ事故が発生、軍関係者24人が中毒症で病院に収容されたことが同月内に米[[ウォールストリート・ジャーナル]]の記事で明らかになった。アメリカ国外での毒ガス備蓄は沖縄のみで、周辺住民は事故の再発におびえ、島ぐるみの撤去要求運動が起こった。
59 ⟶ 57行目:
 
=== 暴動発生の月 ===
糸満れき殺事件で[[1970年]][[12月7日]]に軍法会議は、被害者への賠償は認めたものの、加害者は証拠不十分として無罪判決を下した。沖縄人の多くがこの判決に憤り、[[12月16日]]に糸満町で抗議県民大会が開かれた。さらに暴動前日の[[12月19日]]には、美里村の美里中学校グラウンドで「毒ガス即時完全撤去を要求する県民大会」(上記の糸満事件無罪判決に対する抗議も決議文に含む)が開かれ、約1万人が参加した。その参加者が集会終了後に、またそれ以外の市民および周辺市町村住民も忘年会などを目的に、事件発生場所に隣接する中の町社交街に多数集まっていた。
 
== 事件の勃発 ==
[[1970年]][[12月20日]]午前1時過ぎ、コザ市の中心街にある[[胡屋十字路]]から南に200メートルほどの地点(現[[サンエー (沖縄県)|サンエー]]中の町タウン店駐車場前)で、軍道24号線(現在の県道330号線)を横断しようとした沖縄人軍雇用員(酒気帯び)が、キャンプ桑江(CAMP LESTER)のアメリカ陸軍病院所属のアメリカ軍人(同じく酒気帯び)の運転する乗用車にはねられ、全治10日間ほどの軽傷を負う事故が発生した(第1の事故)。現場には5台のMPカーと1台の琉球警察[[パトカー]]が出動、負傷者の病院搬送と現場検証、加害者の事情聴取を行った。その間、現場に隣接する中の町社交街から地元住民が集まり始めた。MPによる事故処理に対し「第二の糸満事件にするな」「犯人を逃がすな<ref>負傷者の搬送より加害者の移送が先になり、あたかもMPが加害者を逃がそうとしたように見えたので群集が騒ぎ出したという説もある。</ref>」と不信・不満を口々に叫び騒然となったが、警察官の機転で加害者はコザ警察署(現[[沖縄警察署]])に移送された。
この時点で数百人規模になっていた群集は半ば暴徒と化し、公然と車道に出て、当時黄色の[[ナンバープレート]]によって区別されていたアメリカ軍人・軍属の車両が走行してくると進路を妨害するなどしたため、MPおよび警察官は秩序維持のため応援部隊を要請。そして午前2時10分ころ、反対車線で走路妨害にあったアメリカ兵運転の乗用車が、沖縄人運転の民間車両に追突(第2の事故)。暴徒はこれを取り囲み[[投石]]、運転手に暴行を加えた。またMPにも投石を始め、MPが退いた後に残ったMPカーを横転させ、火を放った。
 
事故車両の移動が済んだ午前1時35分ころ、現場に沖縄人ガールフレンドを伴ったアメリカ兵が通りかかり、群集は彼らを挑発的に煽った。MPは2人をMPカーに乗せ移動しようとしたが、群衆はMPカーを取り囲み横転させようとした。他のMP隊員の応援でMPカーは現場から脱出したが、群集は続いて他のMPカーを横転させようとした。
 
この時点で数百人規模になっていた群集は半ば暴徒と化し、公然と車道に出て、当時黄色の[[ナンバープレート]]によって区別されていたアメリカ軍人・軍属の車両が走行してくると進路を妨害するなどしたため、MPおよび警察官は秩序維持のため応援部隊を要請。そして午前2時10分ころ、反対車線で走路妨害にあったアメリカ兵運転の乗用車が、沖縄人運転の民間車両に追突(第2の事故)。暴徒はこれを取り囲み[[投石]]、運転手に暴行を加えた。またMPにも投石を始め、MPが退いた後に残ったMPカーを横転させ、火を放った。
 
隊伍を組み直したMPは午前2時15分ころ[[拳銃]]による[[威嚇]]発砲を行い、暴行を受けていた運転手を救出。しかし発砲で一旦ひるんだ暴徒はかえって怒りを爆発させ、MPを投石で押し返すとともに、2時30分前後から沿道に駐車中のアメリカ軍車両や放置されたMPカーを車道中央へ押し出し、次々と放火した。
 
73 ⟶ 66行目:
午前3時ころには、琉球警察は第三号召集(全警察官1200人の最大動員)を発令、アメリカMPも完全武装の兵員配備を要請したが、暴動発生現場の制圧は不可能と判断しいったん周辺へ退いた。最終的に警察官は約500人<ref>勤務外の警察官はほとんどが自宅に電話を持っておらず実質的に動員不能だった。</ref>、MP・沖縄人ガード([[警備員]])約300人、米軍武装兵約400人が動員された。また米民政府は午前3時30分、コザ市全域に24時間の「コンディション・グリーン・ワン」を発令した。
 
琉球政府では、屋良朝苗行政主席が東京出張で不在のため、知念朝功[[行政副主席|副主席]]が午前5時55分に現地に到着して事態の収拾を指揮した。警察は宣伝カーを繰り出して群集に帰宅を呼びかけ、午前7時30分までに暴動は自然収束した。結果、車両75台以上<ref>「沖縄県警察史」では75台、「米国が見たコザ暴動」収載のアメリカ軍秘密通信ではアメリカ軍人車両72台、軍車両6台、軍消防車1台、オートバイ3台の計82台。軍有車両を除けば両者の数値は一致する。</ref>が炎上し、アメリカ軍人40人、沖縄人ガード5人、アメリカ軍属16人、地元住民14人、容疑者7人、警察官6人が負傷したが、暴動につきものの民家・商店からの略奪行為は発生しておらず<ref>Aサインバーに放火しようとした者もたが、同じ沖縄人の説得に応じて中止したとう証言あり。[http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-114280-storytopic-86.html 矛盾に満ちた住民対立/コザ騒動から30年]琉球新報2000年12月20日</ref>、アメリカ軍人・軍属のみを標的にした暴動であった。MPと琉球警察は当日、21人を現行犯逮捕した
なお午前3時30分ころ、第3の交通事故が発生しているが被害者は軽傷であった。
 
暴徒は二手に分かれて進み、約200人が胡屋十字路から西へ約600メートルに位置する[[嘉手納基地]]第2ゲートから、火のついた車両を押し立てて基地内へ侵入した。基地内ではゲートに設けられているガードボックスや米人学校が放火された。アメリカ軍は威嚇発砲、放水で対抗しそれ以上の基地内への侵入を抑えた。また約2000人が事件発生現場から南西へ約1キロメートル離れた島袋三叉路まで押し出して武装兵と対峙。車両への放火、投石が繰り返され、即席の[[火炎瓶]]も使用された。午後5時にアメリカ軍はベトナムでも使用していた手投げ[[催涙ガス弾]]の使用を許可、暴徒の行動は分断され沈静に向かった。
 
琉球政府では、屋良朝苗行政主席が東京出張で不在のため、知念朝功[[行政副主席|副主席]]が午前5時55分に現地に到着して事態の収拾を指揮した。警察は宣伝カーを繰り出して群集に帰宅を呼びかけ、午前7時30分までに暴動は自然収束した。結果、車両75台以上<ref>「沖縄県警察史」では75台、「米国が見たコザ暴動」収載のアメリカ軍秘密通信ではアメリカ軍人車両72台、軍車両6台、軍消防車1台、オートバイ3台の計82台。軍有車両を除けば両者の数値は一致する。</ref>が炎上し、アメリカ軍人40人、沖縄人ガード5人、アメリカ軍属16人、地元住民14人、容疑者7人、警察官6人が負傷したが、暴動につきものの民家・商店からの略奪行為は発生しておらず<ref>Aサインバーに放火しようとした者もいたが、同じ沖縄人の説得に応じて中止したという証言あり。[http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-114280-storytopic-86.html 矛盾に満ちた住民対立/コザ騒動から30年]琉球新報2000年12月20日</ref>、アメリカ軍人・軍属のみを標的にした暴動であった。MPと琉球警察は当日、21人を現行犯逮捕した。
 
事件上特徴的なのは、政治党派の組織的な指導指揮がなく自然発生的であったこと、また、それまでアメリカ軍から利益を得ており、反アメリカ・反基地・日本復帰運動に敵対的だったAサインバー・クラブの従業員が逮捕者も含め積極的に暴動に参加したことである。
 
89 ⟶ 77行目:
 
アメリカ軍が発令した24時間の外出禁止令は、24日から午後6時からの12時間、翌年[[1971年]]2月13日からは午前0時から6時間と短縮されながらも長期に継続された。基地周辺経済への影響は甚大であり、コザ商工会議所の調べでは、事件当日から5日間の外出禁止令により市内で約100万ドルの損失が計上された。
 
そのような状況下でも全軍労は解雇撤回闘争を継続したが、これに対し日本政府は「基地に反対しながら解雇撤回を求めるのは筋が通らない」と指摘した。[[1972年]]5月の復帰までに約7000人が解雇された。
 
事件を受けて生徒・学生が抗議行動を展開した。[[12月22日]]には[[沖縄県立首里高等学校|首里高校]]で討論集会が開催され、外出禁止令が短縮される[[12月24日]]には同高生徒1200人が米民政府に押しかけて抗議を行った。同日、コザ市の[[国際大学 (沖縄)|国際大学]]では[[琉球大学]]・[[沖縄大学]]・国際大学の三大学共闘会100人が「反基地、反軍政、暴動支援集会」を開催後デモに移ろうとして機動隊に解散させられ、さらにそれを聞きつけたAサインバー従業員150人が構内に乱入し学生と小競り合いになった。
 
毒ガス兵器は、アメリカの領土である[[ジョンストン島]]へ撤去移送された。第1次移送は[[1971年]][[1月13日]]、第2次移送は[[7月15日]]から[[9月9日]]までの56日間にわたって行われ、周辺住民約5000人が避難生活を余儀なくされた。