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==1970年代以降==
1970年代に入ると、キング・タビーは自身のスタジオ、「キング・タビーズKing Tubby's」の経営を始める。プロデューサーの[[バニー・リー]]と共に、アグロベーターズ(後の[[スライ&ロビー]]が在籍していた)をハウスバンドにした。彼のスタジオは原始的な2トラック、もしくは4トラックのミキシング機材しかなかったが、手に入るだけのエフェクターに電気技術的なあらゆる加工を施して、他の誰にもまねのできない音を作った。1972年から74年の間には、[[リー・ペリー]]や[[オーガスタス・パブロ]]といったプロデューサーもキング・タビーと仕事をして、ダブの作品が数多く録音された。
 
1970年代後半、キング・タビーは現場から離れ、フィリップ・スマート、プリンス・ジャミー(後に[[キング・ジャミー]])や[[サイエンティスト]]など若い世代のエンジニアを教育した。その後、レコーディングの現場に復帰し、ファイヤーハウス・レーベルを立ち上げてダンスホール期にも積極的に対応したが、1989年2月6日、自宅の外で何者かによって射殺された。