「トビリシ」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
Frozen-mikan (会話 | 投稿記録) |
||
81行目:
== 歴史 ==
{{Wide image|Tbilisi Panorama.jpg|1500px|トビリシのパノラマ写真}}
紀元前4000年ごろの居住跡が確認されている<ref>吉村貴之・前田弘毅・[[廣瀬陽子]]「温泉と風とバラ色の街」/ 北川誠一・前田弘毅・廣瀬陽子・吉村貴之編著『コーカサスを知るための60章』明石書店 2006年 51ページ</ref>。すでに[[4世紀]]の[[ペルシア]]史料に、この地域に集落があったことが言及されている。今も市内に一部が残るナリカラ砦はこの頃に造られたものである。その後、[[5世紀]]に{{仮リンク|カルトリ|en|Kartli|label=古代カルトリ王国}}(後に
[[570年]]以降、[[サーサーン朝]]ペルシアに征服され、[[627年]]に、[[東ローマ帝国]]と[[ハザール]]の連合軍が陥落させた。[[736年]]には[[カリフ]]・[[マルワーン2世]]に率いられた[[ウマイヤ朝]]の軍が進入。以後、{{仮リンク|トビリシ首長国|en|Emirate of Tbilisi}}として[[アラブ人]]に支配される。[[1068年]]、[[スルターン]]・[[アルプ・アルスラーン]]の下、[[セルジューク朝]]の侵略を受ける。[[1122年]]に、セルジュークとの激しい戦闘に勝利し、{{仮リンク|ダヴィト4世 (グルジア王国)|en|David IV of Georgia<!-- [[:ja:ダヴィド4世]] とリンク -->|label=ダヴィト4世|FIXME=1}}(ダヴィト建設王)がトビリシを解放してグルジアを統一。西グルジアの[[クタイシ]]からトビリシに遷都し、全グルジアの首都となり王国の領土は拡大し繁栄の道を進む。[[タマル (グルジア女王)|タマル女王]]のもとで黄金時代を迎える。しかし1世紀で終わりを告げる。[[1226年]]、[[ホラズム・シャー朝]]のスルターン・[[ジャラールッディーン・メングベルディー]]の侵攻を受け、[[1236年]]には[[モンゴル]]の統治下に入る。モンゴル支配下のトビリシは自治を享受できた時代であった。[[14世紀]]から[[18世紀]]にかけて、[[ティムール]]や[[タブリーズ]]のシャー、[[白羊朝]]、など入れ替わり来襲を受ける。[[1522年]]、[[サファヴィー朝]]イランの侵攻を受けるも{{仮リンク|ダヴィト10世 (カルトリ王国)|en|David X of Kartli|label=ダヴィト10世}}に解放される。この時期は荒廃したトビリシの再建の時代であった。[[1795年]]、イランの[[アーガー・モハンマド・シャー]]の軍勢の前に、トビリシは灰燼に帰す。もはや、イランやトルコの侵攻の前に成す術も持たないグルジアは、[[ロシア帝国]]の庇護を求め、[[1801年]]、[[帝政ロシア]]に編入された。トビリシには[[総督府]]が置かれ、[[カフカース]](コーカサス)支配の拠点となった。その間、都市は大きく発展し、近代ヨーロッパ的な町並みが形成される。[[1811年]]には8500人であった人口は、[[1825年]]には2万人になったという。19世紀末にはトリビシ・ポチ線、パトゥミ・トリビシ・バグー線の鉄道敷設で交通の要衝となった。当時ペルシャ、オスマン、スウェーデン、ベルギーの公館も建ち、国際都市の様相を呈した<ref>吉村貴之・前田弘毅・廣瀬陽子「温泉と風とバラ色の街」/ 北川誠一・前田弘毅・廣瀬陽子・吉村貴之編著『コーカサスを知るための60章』明石書店 2006年 52ページ</ref>。[[アレクサンドル・プーシキン]]や[[レフ・トルストイ]]が幾たびも訪れ、[[ロマノフ朝]]の王族の屋敷も市内に作られた。[[1918年]]にグルジアが独立した際、トビリシは[[グルジア民主共和国]](1918年-1921年)の首都となる。以後、[[グルジア・ソビエト社会主義共和国]]([[1921年]] - [[1922年]]、[[1936年]] - [[1991年]])、[[ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国]]([[1922年]] - [[1936年]])の首都。[[1991年]]にグルジアが再び独立を果たして以後、グルジアの首都である。
== 民族構成 ==
|