「川本大輔」の版間の差分

→‎経歴: 出典が永年なかったエピソードの記述を除去
m (意味的に適切な方へリンクを付け替え(血液型ABO式血液型))
(→‎経歴: 出典が永年なかったエピソードの記述を除去)
三原中央シニア時代は全日本にエースとして出場、[[広陵高等学校 (広島県)|広陵高等学校]]時代は3年春に[[選抜高等学校野球大会|センバツ]]出場、夏に広島県大会ベスト8入りを果たす。[[2000年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|2000年のドラフト]]5位で[[読売ジャイアンツ]]入団。
 
[[サイドスロー]]から最速142km/hの[[速球|ストレート]]と[[カーブ (球種)|カーブ]]・[[スライダー (球種)|スライダー]]・[[チェンジアップ]]など多彩な変化球を繰り出す本格派だったことから、[[斎藤雅樹]]2世と言われた。
 
ルーキーだった[[2001年]]、プロの厳しさを痛感、自信を失ってしまい、[[2002年]]3月19日の教育リーグ・日本ハム戦に先発したが、8連続を含む11四死球を与え2死しかとれず降板。参考記録ながら1イニング11四死球という不名誉な記録を打ち立てた。いわゆる投球恐怖症である。川本は入団した当時からその症状があり、[[オーバースロー]]に変更したがストライクが入らず、サイドスローに戻しても結果は同じだったという。
 
そんな川本を支えたのが広陵の中井哲之監督であり、何度も電話して励ましを受けたのに加え、同年10月13日にも修学旅行で上京していた恩師と会食。「自信を持ってやれ」と激励され、16日の好投で本来の自分をアピールし投球恐怖症を克服。
 
だが、一軍登板がないまま[[2004年]]10月7日に戦力外通告を受けた。合同トライアウトを受けたがどの球団からも声がかからなかった。台湾移籍も視野に入れていたが断念した。
7,373

回編集