「益山性旭」の版間の差分

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|最終出場 = 1985年10月24日
|経歴 =
* [[履正社学園豊中中学校・履正社高等学校|大阪福島商業高等学校]]
* [[帝京大学硬式野球部|帝京大学]]
* [[阪神タイガース]] (1977 - 1983, 1985)
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== 来歴・人物 ==
[[履正社学園豊中中学校・履正社高等学校|大阪福島商]]在学中[[1972年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1972年のドラフト会議]]で[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]から4位指名されるものの、これを拒否して[[帝京大学]]に進学。ドラフト会議では司会の[[伊東一雄]]が益山の漢字を「'''『性』は[[セックス]]の性'''」と説明し、会場が爆笑の渦に包まれた。[[首都大学野球連盟|首都大学リーグ]]では優勝に届かず、[[1974年]]春季リーグの2位が最高成績。リーグ通算78試合登板、29勝31敗、防御率1.65、450奪三振。
 
[[1976年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1976年のドラフト会議]]で[[阪神タイガース]]に1位指名され入団。「[[首都大学野球連盟|首都大学野球]]リーグ屈指の左腕」というふれこみで入団し[[1977年]]の[[オープン戦]]では[[王貞治]]を三振にとるなど期待される。8月12日には[[中日ドラゴンズ]]との対戦で初先発、同年は3勝を記録し。[[1978年]]16試合に先発し、[[7月2日]][[広島東洋カープ]]戦では9回1死まであわや[[ノーヒットノーラン]]の投を見せた。[[高橋慶彦]]にヒットを打たれたありのの、プロではわずか11初完投にとどまっている利を果たす
 
しかしその後は制球難もあり低迷、[[1982年]]には再び先発陣に喰い込み3勝を挙げるが、翌年以降は登板機会がなく、[[1984年]]に一度は[[打撃投手]]に転向となる。しかたものの、左投手が不足していたというチーム事情もあり[[1985年]]に現役復帰し8試合に中継ぎとして登板、同年限りで引退した。[[2003年]]より[[大阪市|大阪]]・[[十三 (大阪府)|十三]]で焼き鳥屋「本陣」を経営している。
[[1978年]][[7月2日]]の[[広島東洋カープ]]戦で先発し9回1死まであわや[[ノーヒットノーラン]]の投球を見せた。[[高橋慶彦]]にヒットを打たれたものの、プロ初完投勝利を挙げている。
 
[[1984年]]に一度は[[打撃投手]]に転向したものの、左投手が不足していたというチーム事情もあり[[1985年]]に現役復帰し、同年引退。[[2003年]]より[[大阪市|大阪]]・[[十三 (大阪府)|十三]]で焼き鳥屋「本陣」を経営している。
 
== 詳細情報 ==