「貴賤結婚」の版間の差分

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== 日本 ==
日本では古来より一夫多妻制であったため、正妻以外の妻は必ずしも家柄を重視されるとは限らなかった。そのため、貴賤結婚の例は多い。むしろ「貴賎結婚」という概念自体がなかったと言えよう。正妻の身分は重視されたが、跡継ぎを正妻が産む必要はなかったため、跡継ぎの生母が身分の低い側室・女官・女中などであった例も多い。たとえば、[[光仁天皇]]の妻で[[桓武天皇]]のである[[高野新笠]]は、身分の低い帰化人の系譜出身の身分の低い女官であった。また、[[光格天皇]]の生母[[大江磐代]]は、父は[[鳥取藩]]の武士階級(ただし[[陪臣]]の上、のちに武士身分を捨てて医師となる)だった[[岩室宗賢]]であり、母は鉄問屋の娘(町人、かつ岩室とは内縁関係)であった。
 
この傾向は、武士身分でもおおむね同じであった。江戸時代には、[[征夷大将軍|将軍]]の正室たる[[徳川将軍家御台所|御台所]]は公家・宮家・天皇家から迎える慣例となっていたが、側室の出身身分は必ずしも問われるわけではなく、出生時の身分の低い女性が次期将軍の生母となることもあった。例えば、[[江戸幕府]]第6代将軍[[徳川家宣]]の母は、諸説あるが一説によれば伏見屋五郎兵衛なる魚屋の娘とされる[[長昌院]]である。これらの場合、一旦[[旗本|直参旗本]]などの武家身分の家の形式上の[[養女]]となってのち[[大奥]]に出仕するのが通例であり、のちに将軍に見初められるというケースが多い。