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鄭は春秋時代の初めごろは強国であったが、子産が生まれた頃には弱小国となっており、しかも鄭の地は北の[[晋 (春秋)|晋]]、南の[[楚 (春秋)|楚]]の2大国に挟まれた戦略的重要地であるので、度々侵攻を受けて、軍事面でも経済面でも圧迫されていた。
 
鄭の九代目・穆公は息子を多く儲けており、その死後は[[霊公 (鄭)|霊公]]、次いで[[襄公 (鄭)|襄公]]が後を継ぎ、それ以外の子は分家した。この内、[[子良]](公子去疾)・[[子罕]](公子喜)・[[子駟]](公子騑)・[[子豊]](公子平)・[[子印]](公子舒)・[[子游 (七穆)|子游]](公子偃)・[[子国]]の七人とその家系が鄭の政権を握り、七穆と呼ばれることになる。その後、子駟が政権を掌握して正卿(宰相)となり、十四代・[[釐公 (鄭)|釐公]]を毒殺して[[簡公 (鄭)|簡公]]を立てる。
 
子駟の外交方針はまったく定見が無く、楚が攻めてくれば楚に降って晋と敵対し、怒った晋が攻めてくれば晋に降って楚と敵対すると言うようなことを繰り返し、周囲の失望を買った。子駟もそのことに気がついており、簡公を殺して自ら君主となることでこれを黙らそうとした。