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'''ハンニバル・バルカ'''(Hannibal Barca, [[紀元前3世紀|紀元前247年]] - [[紀元前183年]]/[[紀元前182年]])は、[[カルタゴ]]の[[将軍]]。[[ハミルカル・バルカ]]の長子。'''ハンニバル'''は「[[バアル]]の恵み」や「慈悲深きバアル」、「バアルは我が主」を意味すると考えられ、'''バルカ'''とは「[[]]光」という意味である。
 
[[第二次ポエニ戦争]]を開始した人物とされており、カルタゴが滅びた後もローマ史上最強の[[]]として後世まで語り伝えられていた。2000年以上経た現在でも、その[[戦術]]は研究対象として各国の[[軍隊]]組織から参考にされるなど、[[戦術|戦術家]]としての評価は非常に高い。
 
[[チュニジア]]で流通している5[[チュニジア・ディナール|ディナール]]紙幣に肖像が使用されている。
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=== 少年期 ===
[[第一次ポエニ戦争]]で[[シチリア]]を[[共和政ローマ]]に奪われると、ハンニバルの父、ハミルカルは当時未開であった[[イベリア半島]]の[[植民地]]化政策に乗り出す。そして植民都市[[カルタゴ・ノウァ]]を建設し、[[イベリア人]][[部族]]をまとめて兵士を集め、軍隊を養成した。[[ティトゥス・リウィウス]]によると、ハンニバルが父に同行を願い出た際、父はハンニバルを[[バアル|バアル]]の神殿に連れて行き、息子に一生ローマを敵とする事を誓わせたという。ハミルカルの死後、ハンニバルは、ハミルカルの娘婿であり義理の兄にあたる[[ハスドルバル (ハミルカルの娘婿)|ハシュドゥルバル]]のもとで少年期を過ごす。
 
=== ハンニバル戦争 ===
==== アルプス越え ====
[[画像:Hannibal3.jpg|thumb|left|250px|[[アルプス山脈]]を越えるハンニバルの軍]]
[[紀元前221年]]にハシュドゥルバルが[[暗殺]]されると、ハンニバルは軍隊に[[司令官]]として指名され、カルタゴから承認を受ける。そしてイベリア半島[[戦線]][[指揮]]を取り、エブロ川南方の制圧に着手した。当時カルタゴはローマと[[エブロ川]]を境界として相互[[不可侵条約]]を結んでいたが、ハンニバルの力を恐れたローマはエブロ川南方にある都市サグントゥム(現[[サグント]])と[[同盟]]関係を結び、彼の侵出を阻止しようとする。しかし、ハンニバルはサグントゥムを[[包囲]]攻撃し、八ヶ月後に[[陥落]]させた<ref>8ヶ月もかかっているという事から、ハンニバルは[[野戦]]は得意だったが[[攻城戦]]は不得意だった、という評価がある。逆に、ハンニバルはわざと戦いを長引かせ、ローマ側から[[宣戦布告]]させることを狙った、という説もある。こうすることで不可侵条約を無効にし、エブロ川の北へ進出することを狙っていた、というものである。</ref>。ローマはハンニバルの行動を[[条約]]違反としてカルタゴ政府に[[懲罰]]を要求したが、ハンニバルの絶大な人気の前に、カルタゴ政府は彼に対して何の手も打てなかった。
 
[[紀元前218年]]、ハンニバルはカルタゴ・ノウァを出発。はじめハンニバルの軍勢は[[歩兵]] 90,000人(リビア兵 60,000、スペイン兵 30,000)、[[騎兵]] 12,000(ヌミディア兵主体)、[[戦象]] 37 頭、カルタゴの[[伝統]]通り[[将官]]以外は全て[[傭兵]]だったという<ref>「ローマ人の物語」より、[[ポリビウス]]と[[リウィウス]]の著作による。彼ら二人が参考にしたのはハンニバルの[[ギリシャ語]]教師シレヌスの記録と、[[元老院 (ローマ)|ローマの元老議員]][[ファビウス・ピクトル]]の記録だが、これらは現存していない。</ref>。ハンニバルはエブロ川を渡ったところで、歩兵 10,000 人、騎兵 1,000 人を[[ピレネー山脈]]からエブロ川までの守りに残し、また遠征に不安を抱いたスペイン兵は帰還させた。ハンニバルの軍勢は歩兵 50,000 、騎兵 9,000 、戦象 37 頭となった。これを率い、ハンニバルは[[ピレネー山脈]]を越え[[ガリア]]に入った。
 
ローマはハンニバルのガリア侵入に気付いたが、深い[[森林]]のためにすぐに彼の軍勢の所在が分からなくなった。ハンニバルは[[ローヌ川]]を渡るにあたり、騎兵を上流から先発させて対岸のガリア人を掃討し、妨害を排除したが、渡河は危険であり、多くの犠牲が出た。ここでハンニバルの軍勢は歩兵・騎兵あわせて 46,000 まで減った。戦象も 30 頭は健在だったようである。この渡河の際、ローヌの下流を巡回していたハンニバルの騎兵 500 が、ハンニバル軍を探索するローマ騎兵 300 と戦闘になった。索敵していたローマの[[執政官]]、[[プブリウス・コルネリウス・スキピオ]]が現地に駆けつけたが、彼の到着の3日も前にハンニバルは渡河を終え、[[アルプス山脈]]に向かっていた。
 
このハンニバルのアルプス山脈越えのルートは詳しくは分かってはおらず、現在でも[[歴史家]]の間で意見が異なっている。ともあれ、ハンニバルは山中のガリア人を驚かせるために、戦象を先頭にして[[行軍]]をはじめた。途中で遭遇した[[ガリア人]]には「敵はローマ人だ」と伝え、基本的には金品を贈って懐柔した。[[]]が降るほどの[[寒暑|寒さ]][[疲労]]、狭い山道と[[]]など、行軍は困難をきわめたが、彼らはアルプスを越えた。イタリアに到着した時点で、ハンニバルの軍勢は歩兵 20000 、騎兵 6000 にまで減った<ref>「ローマ人の物語」より、ハンニバル自身の記録による。</ref>。
 
ついにハンニバルは[[イタリア半島]]へ進軍し、ローマの元老院を驚愕させる。[[第二次ポエニ戦争]](別名、ハンニバル戦争、[[紀元前218年]] - [[紀元前201年]])の始まりであった。
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{{main|トラシメヌス湖畔の戦い}}
 
こうして[[北イタリア]]に勢力基盤を築き上げると、ハンニバルはさらに勢力を拡大すべく[[紀元前217年]]の春に南下を開始し、[[エトルリア]]に侵入する。これに対し、ローマでは新たな執政官グナエウス・セルウィリウスと[[ガイウス・フラミニウス]]が再びハンニバルの進路を阻もうと進軍するが、[[トラシメヌス湖畔の戦い]]で敗北、2人の執政官は戦死した。この勢いに乗じてローマの[[都市同盟|同盟都市]]に離反を促すため、ハンニバルは[[南イタリア]]([[マグナ・グラエキア]])へ向かった。ハンニバルは「戦勝を材料として同盟都市を離反させ、その上でローマを滅ぼす」という[[戦略]]を立てていた。戦勝の中でローマ本軍とその[[捕虜]]には厳しく接する一方、同盟都市の捕虜は丁重に遇してローマからの離反を促すメッセージを託して即時[[釈放]]するなど、[[工作]]を重ねていたのである。そうした戦いの中不衛生な沼沢地の行軍などにより、疫病で左目の視力を失った。
 
ここに至ってローマは非常事態宣言を発令し、[[クィントゥス・ファビウス・マクシムス]]を[[独裁官]]に任命する。ファビウスはハンニバルと対峙しつつ直接の戦闘は避けるという方針で臨んだ。ハンニバルはアプーリア(現在の[[プーリア]])を荒し回り[[カンパニア]]へ進軍したが、ファビウスはハンニバル軍に接近するものの、ハンニバルが戦いの火蓋を切ろうとすると退くということを繰り返す。
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勝利したカルタゴ側では余勢を駆って一気にローマを攻略すべきだという意見があり、特に騎兵隊長の[[マハルバル]]が強く進言したが、ハンニバルは[[攻城兵器]]や[[兵站]]の不足という戦略上の理由から、首都[[ローマ]]への進軍を選択せずにローマ同盟都市の離反を図ることを決定する。この時、マハルバルはハンニバルに対し「あなたは勝利を得ることができるが、それを活用することは知らない」と言ったという。
 
ハンニバルは紀元前216年に[[カプア]]を、[[紀元前212年]]に[[ターラント|タレントゥム]]を離反させ、[[シチリア]]島の[[ギリシア人]]都市を反乱させるなど成果を挙げたが、それらを除いては目立った成果を上げられず、以後イタリア半島では一進一退の膠着状態が続く。上記の戦勝を背景にした工作にもローマと同盟都市の結束は崩れず、このことがハンニバルの戦略的誤算として祟っていく。[[シラクサ]]の[[ヒエロニモス]]と同盟したハンニバルは[[カルタゴ]]本国に[[補給]]を要求したが、カルタゴ政府はこの戦争に対して初めは[[日和見主義|日和見の立場]]を取っており、[[制海権]]をローマに握られているせいもあって、ハンニバルは本国とうまく連携することができなかった。
 
==== ローマ側の反撃、スキピオ登場 ====
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[[画像:Isis priest01 pushkin.jpg|thumb|right|150px|スキピオの胸像]]
だがローマはハンニバルをイタリア半島に封じ込めながら、国外の敵対勢力を各個に[[撃破]]・無力化して行く。[[紀元前211年]]に[[スキピオ・アフリカヌス|プブリウス・スキピオ]]がハンニバルの本拠地であるイベリア半島を[[攻略]]し、またギリシアの[[アエトリア同盟]]と結託することで東方[[マケドニア王国|マケドニア]][[ピリッポス5世]]の押さえとしている。
 
ハンニバルは[[紀元前210年]]、[[アプリア]]に進撃するが、同年にタレントゥムを失ってしまう。また[[紀元前208年]]には[[ロクリ]]を攻略するローマ軍を蹴散らし、執政官[[マルクス・クラウディウス・マルケッルス]]を戦死させるものの、タレントゥムの損失は大きく、補給のおぼつかない彼の行動地域は制限を受けてしまう。さらにローマが[[ルカニア]]地方、[[サムニウム]]地方を取り戻すと、南イタリアでのハンニバルの戦略的な主導権は奪われてしまう。
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[[紀元前207年]]、ハンニバルは再度北上してアプリア地方を制圧、ここでイベリア半島から西進する弟・[[ハスドルバル#ハスドルバル・バルカ|ハスドルバル]]の支援を待ったが、ハスドルバルはその途上に[[メタウルスの戦い]]で戦死してしまう。さらにハンニバルと行動を共にしていた弟・[[マゴ]]の[[リグリア]]攻略失敗、またピリッポス5世との連携の失敗などによって、南イタリアでの主導権回復の術を失う。このようにローマはハンニバルの指揮下にない敵対勢力を徐々に削り取っていった。
 
ハンニバルがアプリア地方に封じ込まれる中、ローマではヒスパニアで功績を挙げたスキピオが攻勢に転じようとしていた。[[シチリア]]島を占拠した後、彼はそこを拠点にして[[志願制度|志願兵]]を募り養成していたが、カンナエの戦いの失敗から攻勢への転換に踏み切れない元老院は、当初スキピオに渡航許可を与えなかった。曲折を経てようやく元老院の許可(実際は黙認であり、スキピオへの援助・援軍は約束されなかった)が出たスキピオは、軍勢とともにアフリカに渡航する。いきなりハンニバルを無視して本土に現れた敵にカルタゴ政府は驚き、[[ヌミディア]]王国の[[シュファクス]]率いる騎兵を援軍として戦うが敗北した。
 
この[[敗戦]]に狼狽したカルタゴ政府は、態度を一変してローマとの[[休戦]]交渉とハンニバルの召還を画策、休戦交渉は成立するか見えたが、ハンニバル召還の露見によって休戦交渉は反故となった。ともあれ[[紀元前203年]]、ハンニバルは十数年ぶりに故国カルタゴに戻る事となった。
 
==== ザマの戦い ====
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スキピオは先の会戦で[[ヌミディア]]王シュファクスを追撃して王位から引きずり下ろし、ローマ側についていた[[マシニッサ]]をヌミディア王に即位させていた。これによって、今まで重要な騎兵兵力をヌミディアに依存していたカルタゴ軍は、ローマに対する騎兵の優位を失った。このような状況の中、ハンニバルはスキピオに直接交渉を打診し、[[紀元前202年]][[10月19日]]、ハンニバルは対峙する両軍の前でスキピオと会見した。
 
ハンニバルはスキピオに対して、ローマとカルタゴは相互不可侵とし、[[地中海]]を境に北をローマ領とし、南をカルタゴ領とするという休戦条件を提案する。しかしスキピオはこのたびの戦争はハンニバルのザグントゥム侵略が発端だと指摘、ローマ人はカルタゴ人を信用できないと拒否する。個人的には互いの才能を高く評価していた2人であったが、交渉は決裂した。
 
ザマの戦いはそれまでのハンニバルの戦いと異なり、歩兵ではカルタゴ有利なものの騎兵ではローマ軍に劣るという状況であった。この劣勢を覆すためにハンニバルは先頭に[[戦象]]を配備した。敵に戦象がいる事を知ったスキピオは、[[ウェリテス|軽装歩兵]]で編成されている[[マニプルス|歩兵中隊]]を広い間隔で配置し、直進しかできない戦象を回避させ、無力化する事に成功した。大集団の密集した[[重装歩兵]]を基幹とするカルタゴ軍は機動力に勝るローマ軍の騎兵に後方から攻撃され、また前面からはローマ歩兵に包囲されて大敗した。これによってカルタゴの地中海での優位性は完全に失われ、第二次ポエニ戦争はカルタゴの敗北に終わった。
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第二次ポエニ戦争後、カルタゴは[[ローマ]]の同盟国になることを強要され、膨大な[[戦争賠償|賠償金]]を課せられ、国の前途も危ぶまれた。しかしそれまでカルタゴの政治を牛耳っていた貴族たちが権勢を失い、敗軍の将であるハンニバルの返り咲きが可能になった。彼は先頭に立って母国の経済建て直しを図る。
 
ハンニバルは行政の長である[[カルタゴ#政治機構|スッフェト]]に選ばれ、改革の陣頭指揮を取る。まず名誉職に過ぎなくなっていたスッフェトの権限を回復し、自分に権限を集中させた。次いでカルタゴの行政母体である「104人委員会」の改革に着手する。[[直接選挙]]によって議員を任命することとし、また[[大衆|民衆]]の支持を背景に議員の[[任期]]を終身から2年へと変更した。ハンニバルの[[行政改革]]は効果を挙げた。そして改革の結果[[戦後賠償|賠償金]]返済を完遂し、彼は[[軍人]]としてのみならず[[政治家]]としての手腕の高さも証明した。
 
==== シリアへ亡命 ====
{{main|ローマ・シリア戦争}}
続いてハンニバルは[[国力]]の回復を目指すが、不可能と思われた賠償金の返済をやり遂げた事が、逆に[[マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス]]を始めとするローマの反カルタゴ派の危機感を募らせる事にも繋がってしまった。また、ハンニバルの改革は効果的ではあったが、かなり強引なものでもあり、カルタゴ国内に反ハンニバル派の台頭を許してしまう。反ハンニバル派は「ハンニバルがシリア([[セレウコス朝]])と内通している」とローマに訴え、ローマは事実関係を究明するために調査団の派遣を決定した。身の危険を感じたハンニバルはカルタゴを脱出し、[[亡命]]のためシリア王[[アンティオコス3世]]の許へ走った。なお、実際に内通していたかどうかは不明である。
 
セレウコス朝ではアンティオコス3世の[[軍事顧問]]として意見を具申したともされ、シリアが[[ローマ・シリア戦争|ローマとの戦争]]に突入した際、ハンニバルはシリア軍の[[参謀]]の一人としてローマと対峙するが、若い[[指揮官]]や王に疎まれて意見は採用されず、[[エウリュメドン川の戦い (紀元前190年)|エウリュメドン川の戦い]]でシリア軍将軍[[アポロニオス]]との連携不足のために敗北する。そしてセレウコス朝自体もまた[[マグネシアの戦い]]で大敗を喫して、アンティオコスは[[降伏]]を余儀なくされた。
続いてハンニバルは国力の回復を目指すが、不可能と思われた賠償金の返済をやり遂げた事が、逆に[[マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス]]を始めとするローマの反カルタゴ派の危機感を募らせる事にも繋がってしまった。また、ハンニバルの改革は効果的ではあったが、かなり強引なものでもあり、カルタゴ国内に反ハンニバル派の台頭を許してしまう。反ハンニバル派は「ハンニバルがシリア([[セレウコス朝]])と内通している」とローマに訴え、ローマは事実関係を究明するために調査団の派遣を決定した。身の危険を感じたハンニバルはカルタゴを脱出し、シリア王[[アンティオコス3世]]の許へ走った。なお、実際に内通していたかどうかは不明である。
 
確かにハンニバルはローマを滅亡の渕まで追い込むことに成功した。しかしローマはハンニバルと戦うことで、ハンニバルの包囲殲滅戦術を身につけ、マケドニア戦争や[[ローマ・シリア戦争]]にも完勝する程の強大な存在となっていた。
セレウコス朝ではアンティオコス3世の軍事顧問として意見を具申したともされ、シリアが[[ローマ・シリア戦争|ローマとの戦争]]に突入した際、ハンニバルはシリア軍の参謀の一人としてローマと対峙するが、若い指揮官や王に疎まれて意見は採用されず、[[エウリュメドン川の戦い (紀元前190年)|エウリュメドン川の戦い]]でシリア軍将軍[[アポロニオス]]との連携不足のために敗北する。そしてセレウコス朝自体もまた[[マグネシアの戦い]]で大敗を喫して、アンティオコスは降伏を余儀なくされた。
 
確かにハンニバルはローマを滅亡の渕まで追い込むことに成功した。しかしローマはハンニバルと戦うことで、ハンニバルの包囲殲滅戦術を身につけ、マケドニア戦争やローマ・シリア戦争にも完勝する程の強大な存在となっていた。
 
==== 最期 ====
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[[奴隷]]に首を絞めさせたとも、毒薬を仰いだとも伝わっている<ref>[[ティトゥス・リウィウス]]「ローマ建国史」39.51</ref>。
 
なお、没年は[[紀元前183年]][[紀元前182年]]とされるが、ハンニバルのかつての好敵手スキピオ・アフリカヌスもローマ元老院の[[弾劾]]を受けて政界を退き、ローマを離れた地で紀元前183年に没している。
 
== 死後の評価、エピソード等 ==
 
 
=== ローマ人の評価 ===
ハンニバルはローマ史上最強の敵としてローマ人の記憶に残った。ハンニバルにまつわる記述のほとんどは後世のローマ人によるものであるため、当然ながらローマの敵として彼の能力は高く評価されつつも、人間味のない恐るべき将軍として書かれている。多くの記録には決まり文句のように「彼は残虐きわまりなかった」と書かれており、ティトゥス・リウィウス、さらに[[キケロ]]でさえもそのような表現を使っている。
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=== エピソード ===
{{独自研究|section=1|date=2010年5月}}
 
ザマの戦いから数年後、[[エフェソス]]に亡命していたハンニバルは、使節として同地を訪れたスキピオと再会し、しばし言葉を交わしたというエピソードが[[ティトゥス・リウィウス]]によって伝えられている。スキピオが史上もっとも偉大な指揮官は誰かと問いかけると、ハンニバルは「第一に[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]、第二に[[ピュッロス]]([[エペイロス]]王)、そして第三に自分だ」と答えた。スキピオが重ねて「[[ザマの戦い]]であなたが私を破っていたら」と問うと、「アレクサンドロスを越えてわたしが史上第一の指揮官になっていた」と率直に答えたという<ref>[[プルタルコス]]「英雄伝」ティトゥス・フラミニウス21</ref>。
 
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* ハンス・バウマン『ハンニバルの象つかい』
* [[西谷史]]『[[真・女神転生#.E7.9C.9F.E3.83.BB.E5.A5.B3.E7.A5.9E.E8.BB.A2.E7.94.9F_.E3.82.A8.E3.83.AB.E3.83.BB.E3.82.BB.E3.82.A4.E3.83.A9.E3.83.A0|真・女神転生 エル・セイラム]]』[[ログアウト冒険文庫]]
* [[カガノミハチ]]『[[アド・アストラ -スキピオとハンニバル-]]』 [[集英社]] [[ウルトラジャンプ]]連載
* 映画『[[ハンニバル (1959年の映画)|ハンニバル]]』(1959年、イタリア、演:[[ヴィクター・マチュア]])
 
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{{Commonscat|Hannibal}}
* [[バルカス]] (ドイツ語: Barkas) - 旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の商用車メーカー。社名はハンニバルの姓「バルカ」に由来する。
* [[鉄床戦術]]
 
{{Authority control}}
{{DEFAULTSORT:はんにはる}}