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}}
'''白石 宗実'''(しろいし むねざね)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけて[[武将]]。[[陸奥国|陸奥]]の[[伊達氏]]の家臣。「也」の字を前立にした[[兜]]を着用していたという<ref>{{Cite web |url=http://www.city.tome.miyagi.jp/hurusatolib/tenji/kt08.html|title=白石宗実公着用の甲冑|publisher=[[登米市]]|accessdate=2014-09-22}}</ref>。
 
== 生涯 ==
[[天文 (元号)|天文]]22年([[1553年]])、伊達氏の家臣・[[白石宗利]]の子として誕生。祖父・[[白石宗綱|宗綱]]が[[伊達晴宗]]に仕え、宗実は[[伊達輝宗]]の頃から伊達氏に仕えた。
 
[[天正]]11年([[1584年]])、輝宗・[[伊達政宗|政宗]]父子に従って[[相馬氏]]との戦いに従軍。天正12年([[1585年]])、主君・政宗伊達氏から離反した[[大内定綱]]の小手森城を攻めた際に、これを破るのに貢献した。その後、父の先代・輝宗が[[二本松義継]]のために殺害されたことに激怒した政宗はより[[二本松氏]]と激しい抗争繰り広げられ。このとき、[[相馬義胤 (十六代当主)|相馬義胤]]から和睦勧告の提示があったが、宗実はこれを政宗に取り次ぎ和睦成立に貢献した。その後の[[人取橋の戦い]]でも武功を挙げた。これらの功績により天正13年([[1586年]])、定綱の旧領・[[安達郡]]塩松33邑を加増され、先祖伝来の[[白石城]]から移って[[宮森城]]主となった。天正16年([[1589年]])、伊達氏と[[蘆名氏]]が南奥の覇権を巡って争った[[摺上原の戦い]]にも参加し武功を挙げた。
[[天正]]11年([[1584年]])、輝宗・[[伊達政宗|政宗]]父子に従って[[相馬氏]]との戦いに従軍。
 
天正18年([[1591年]])、政宗は[[豊臣秀吉]]に臣従していた主君・政宗は、[[葛西大崎一揆]]鎮圧後、[[岩出山]]に移封となることになった。宗実が城主の所領であった[[安達郡]]は没収されることになったため、代わりに[[胆沢郡]][[水沢城]]主を任され15,000石の所領を与えられた。
天正12年([[1585年]])、政宗は伊達氏から離反した[[大内定綱]]の小手森城を攻撃、これを破るのに貢献した。その後、父の輝宗が[[二本松義継]]のために殺害されたことに激怒した政宗は[[二本松氏]]と激しい抗争を繰り広げた。このとき、[[相馬義胤 (十六代当主)|相馬義胤]]から和睦勧告の提示があったが、宗実はこれを政宗に取り次ぎ和睦成立に貢献した。その後の[[人取橋の戦い]]にも参加して武功を挙げた。
 
慶長4[[文禄]]2(1599([[1593]]より、[[豊臣氏]]による[[文禄・慶長の役]]に参加し、[[朝鮮]]へ渡海した。[[慶長]]4年([[1599年]])、朝鮮からの帰国直後、[[山城国]]の[[伏見]]において死去した。享年47(一説には55とも)。
天正13年([[1586年]])、[[大内定綱]]の旧領・[[安達郡]]塩松33邑を加増され、先祖伝来の[[白石城]]から移って[[宮森城]]主となっている。
 
宗実には男子がなかったため、娘婿の[[白石宗直|梁川宗直]](政宗の大叔父[[梁川宗清]]の長男)が、白石氏の家督を継いだ。
天正16年([[1589年]])、伊達氏と[[蘆名氏]]が南奥の覇権を巡って争った[[摺上原の戦い]]にも参加、武功を挙げた。
 
天正18年([[1591年]])、政宗は[[豊臣秀吉]]に臣従していたが、[[葛西大崎一揆]]鎮圧後、[[岩出山]]に移封となることになった。宗実が城主であった[[安達郡]]は没収されることになったため、代わりに[[胆沢郡]][[水沢城]]主を任され15,000石の所領を与えられた。
 
[[文禄]]2年([[1593年]])より、[[文禄・慶長の役]]に参加し、渡海した。
 
慶長4年(1599年)、[[朝鮮]]からの帰国直後、[[山城国]]の[[伏見]]において没した。享年47(一説には55とも)。
 
宗実には男子がなかった為、娘婿の[[白石宗直|梁川宗直]](政宗の大叔父[[梁川宗清]]の長男)が、白石氏の家督を継いだ。
 
== 逸話 ==