「モニカ・セレシュ」の版間の差分

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[[1989年]]に15歳でプロ転向後、セレシュはすぐに世界的な活躍を始めた。4月末に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ヒューストン]]の大会で[[クリス・エバート]]を決勝で 3-6, 6-1, 6-4 で破り、[[女子テニス協会|WTA]]ツアー初優勝を飾る。その年初出場した[[1989年全仏オープン|全仏オープン]]でいきなり準決勝進出を果たし、初対戦の[[シュテフィ・グラフ]]に 3-6, 6-3, 3-6 で敗れたものの善戦する。翌[[1990年]]の[[1990年全仏オープン|全仏オープン]]では、決勝でグラフを 7-6, 6-4 のストレートで圧倒し、「16歳6ヶ月」の当時のオープン化以降4大大会最年少優勝記録を樹立した。(これは現在も[[全仏オープン]]女子シングルスの大会最年少優勝記録である。[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]女子シングルスの最年少優勝記録は、[[1997年全豪オープン]]に「16歳3ヶ月」で優勝した[[マルチナ・ヒンギス]]によって破られた。)[[1991年]][[3月11日]]には、史上最年少の「17歳3ヶ月」で世界ランキング1位の座につき、グラフの世界1位連続保持記録を「186週」で止めた。1990年-[[1992年全仏オープン|1992年]]に[[全仏オープン]]3連覇、[[1991年全豪オープン|1991年]]-[[1993年全豪オープン|1993年]]に[[全豪オープン]]3連覇、[[1991年全米オープン (テニス)|1991年]]と[[1992年全米オープン (テニス)|1992年]]に[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]2連覇を達成するなど、1990年から[[1993年]]の4月までは彼女の絶頂期であった。
 
しかし[[1993年]][[4月30日]]、セレシュは[[ドイツ]]・[[ハンブルク]]の「シチズンカップ」準々決勝で[[ブルガリア]]の[[マグダレナ・マレーバ]]との対戦中に、暴漢ギュンター・パルシェに背中を刺された。この事件が競技中に起きたことから、全スポーツ界に大きな衝撃が広がる。<!--これが最も重要なポイント-->セレシュはこの後遺症により([[心的外傷後ストレス障害|PTSD]]と考えられる)、2年以上半も試合から遠ざかった。(暴漢はグラフの“熱狂的ファン”と自称し、「セレシュに怪我をさせれば、その間試合に出場できなくなるので、グラフが再び世界1位に返り咲けると思った」と犯行動機を話している。)この事件によるブランク期間中の[[1994年]]3月、モニカ・セレシュは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]市民権を取得した。なお、この事件以降セレシュはドイツ国内でのプレーを拒否してきた。[[2001年]]に女子ツアー年間最終戦の[[WTAツアー選手権]]がアメリカ・[[ニューヨーク]]からドイツ・[[ミュンヘン]]に開催地を移転した時も、前年の[[2000年]]から「(来年)仮に出場資格を得たとしても、欠場するだろう」と話していた。(ミュンヘン開催は2001年の1度だけだった。)
 
[[1995年]]8月、セレシュはようやく[[カナダ・マスターズ|カナダオープン]]で復帰を果たす。その準決勝では[[ガブリエラ・サバティーニ]]、決勝で[[アマンダ・クッツァー]]を破り、復帰戦を優勝で飾った。翌月の[[1995年全米オープン (テニス)|全米オープン]]では第2シードで出場。決勝ではライバルの[[シュテフィ・グラフ]]に 6-7, 6-0, 3-6 で敗れたが、以前と変わらない大接戦で、ブランクを全く感じさせなかった。翌[[1996年]]、セレシュは[[1996年全豪オープン|全豪オープン]]で復帰後初の4大大会優勝を果たす。この勝利により達成した[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]女子シングルス通算9勝は、[[モーリーン・コノリー]]と並ぶ女子歴代8位タイ記録である。