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{{出典の明記|date=2015年3月19日 (木) 16:38 (UTC)}}
'''プリンキパトゥス'''('''{{lang-la-short|Principatus'''}}は、[[ローマ帝国|帝政ローマ初期]]における政治形態の呼称である。「[[プリンケプス]](元首)による統治」を意味し、日本語では'''元首政'''(げんしゅせい)と訳される。
 
== プリンキパトゥスの開始 ==
[[古代ローマ]]の[[共和政ローマ|共和政]]は、ローマが[[都市国家]]、あるいは都市国家連合である時代には有効に機能した。しかしながらローマが[[地中海世界]]のほとんどを支配する巨大国家になると、システムとして限界を呈してきた。このような巨大国家の指導者の地位は、都市国家ローマの有力者の集まりにすぎない[[元老院 (ローマ)|元老院]]や、首都ローマの市民の選挙によって選ぶ[[執政官]]には、とうてい務まらなくなったのである。小規模な国家であれば市民や元老院の利害関係の調整も何とか機能したのであるが、国家が大規模化するとそれが機能せず、元老院議員たる貴族は私利私欲を優先させるようになった。また市民集会への参加権利の無い属州民は、国家運営から完全に排除され、属州まで含めた大局的な見地での国家運営は、到底遂行しえない状態であった。
 
かといって古代において、こうも巨大化した国家で全国民参加による民主制を実施するなど、到底不可能なことであった<ref>[[同盟市戦争]]を経て、ローマ連合加盟諸都市の市民にもローマ市民権が付与されていたが、当然ながら首都ローマ在住の市民以外は、市民集会に出席して執政官選挙に投票することは不可能である。</ref>。仮に実行したとしても、属州民が加わればさらに利害関係を複雑にし、国家運営をなおさら困難にするだけであり、当然ながらそんなことは誰も想定すらしなかった。よって古代ローマ全域における国家運営を滞りく遂行するには、君主制への移行はやむを得ないことであった。
 
もうひとつの側面として、古代ローマにおける[[パトロネジ]]の問題があった。古代ローマは、主に貴族からなる[[パトロヌス]](親分)が、主に平民からなる[[クリエンテス]](子分)を従え、かつ保護する相互関係があった。ローマが都市国家の段階では、貴族たるパトロヌスがクリエンテスを保護する事により、私利私欲を追求する存在ではなく[[ノブレス・オブリージュ]]の体現者となっていた。しかしローマが巨大国家になると、貴族たるパトロヌスが保護するクリエンテスは国家の構成員の少数派となり、結果、貴族は自分に近い身内だけを利益を優先する存在となり、大局的な国家運営よりもクリエンテスの利益代表者としての立場を優先した。この現状を打破するには、個々のパトロヌスとクリエンテスの複雑な上下関係を、ただひとり一人を頂点とする単純な上下関係へと整理する必要があった。
 
しかしながら、かつて王を追放し共和制に移行した歴史を持つ古代ローマでは、君主制は最大のタブーであった。「[[内乱の一世紀]]」と呼ばれる動乱の時期を経て、終身[[独裁官]]に就任した[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]は、共和政ローマの伝統を守ろうとする者たちによって暗殺される事になる<ref>ただしそれだけでなく、かつての[[グラックス兄弟]]と同様の農地改革を実行して、貴族層の怒りを買ったのも原因である。</ref>。
 
その後を継いだ[[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]は、[[紀元前27年]]に元老院より「[[アウグストゥス]](尊厳なる者)」の称号を受け、古代ローマ最初の「[[皇帝]]」となったとされる。だがそれは後世の認識であり、アウグストゥスは建前上は君主の地位に就いたわけではなく、共和政の守護者として振る舞った。このような、実質上は皇帝の地位に就いたものの、建前としては古代ローマの伝統を墨守し共和政の体裁を守ったこの体制を、後世になって'''元首政'''('''プリンキパトゥス''')と呼ぶ。
 
== 権力の構成 ==
オクタウィアヌスは「[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]]」の称号の他に、共和政時代から存在した[[プリンケプス]]という「第一人者」の意を持つ地位にもあった。彼は暗殺されないために最高権力者を連想させる振る舞いを極力避けた。そんな彼にとって直接の職権を伴わないこの「プリンケプス」という名誉称号は表向きとしては格好の隠れ蓑となった。したがってアウグストゥスや同様の構成をとった後継の皇帝たちの統治体制は「プリンケプスによる統治」、すなわちプリンキパトゥスと呼ばれている。
 
アウグストゥスの統治はあくまで共和政の継続という外面を持っており、その権力も独裁官という非常時大権ではない、共和制平時のさまざまな権限を一身に帯びるという形で構成されている。11つは完璧に合法でありながら、それらを束ねると共和制とはひどく異質な最高権力者の地位となる。こうした地位についてアウグストゥスは「私は権威において万人に勝ろうと、権力の点では同僚であった政務官よりすぐれた何かを持つことはない」と自身で表向きの説明をしている。プリンケプスの地位を構成したうち、主要なものは[[執政官]]の権限、上級の[[プロコンスル|プロコンスル(属州総督)]]権限、[[護民官|トリブヌス・プレビス(護民官)]]職権の3つで、プリンケプスの権力は基本的にはこの3つから説明される。これら3つの権限はアウグストゥスがローマを合法的に統治する根拠であると同時に、執政官権限、上級属州総督権限の2つは合わせると実質全[[ローマ軍]]の統帥権を意味し、アウグストゥスが軍事力を掌握する根拠でもあった。以上の行政権、軍事力のほかにアウグストゥス自身が述べるように圧倒的な「権威」が重要な要素であった。アウグストゥスは[[最高神祇官|ポンティフェクス・マクシムス(最高神祇官)]]という神職にも就任しており宗教上の最大権威者となってもいたが、それ以上に「内乱の最終的な勝者」という軍事的実績を伴った権威は正面からの体制への挑戦者を寄せ付けなかった。
 
このようにアウグストゥスが得た称号や権限をまとめると以下のようになる。こうした称号のうちいくつかはのちに「皇帝」の意味で使われることになる。
 
* 「[[プリンケプス]]」(市民、元老院の中の第一人者)の称号。
* 「[[執政官]]の[[インペリウム]]」 - ローマの行政権の根拠。およびイタリア半島における軍指揮権。
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そして帝政ローマは内乱期を経て、[[フラウィウス朝]]、五賢帝時代へと続く。
 
== 五賢帝時代 ==
[[ネルウァ]]に始まる5代のローマ皇帝は、伝統的な見方によれば、血縁による世襲を行わず、有能な者を養子として後継者に選び、元老院の承認を得て帝位を継承したとされる。元老院の承認を得る時点である程度の政治的地盤が必要となることから、近年では政治抗争を勝ち抜いた人々であるとする説も叫ば唱えられているが、いずれにせよ有能な人物を後継者として帝位を継承したことには違いはい。この5代の皇帝を[[五賢帝]]と呼ぶ。[[ユリウス・クラウディウス朝]]以降、'''プリンキパトゥス'''は全くの建前に過ぎず、血統による皇位継承がなされた。しかしこの時代においては、皇帝は言わば終身大統領とも言うべき存在であり、'''プリンキパトゥス'''が実質的に機能していたのである。ただしこれは五賢帝のうち4人が実子を持たなかったからそうせざるを得なかっただけに過ぎず、事実としてやや遠いとはいえ五賢帝のほとんどは血縁関係があった(そのため五賢帝時代を[[ネルウァ=アントニヌス朝]]と看做す見解も存在する)。よって五賢帝最後の[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]に実子[[コンモドゥス]]が存在したこと、彼が非常な[[暴君]]であったことによって、五賢帝時代は終焉を迎える。
 
== 軍人皇帝時代 ==
いわゆる「[[3世紀の危機]]」と呼ばれる、[[ゲルマン民族]]や[[サーサーン朝]]など絶えず外敵が侵入した時代において、ローマ皇帝は軍人としての有能さが求められた。有能な皇帝を選ぶことができるのは戦場にいる兵士であり、元老院は兵士が擁立した皇帝を追認する事しかできなかった。だが多くの皇帝が戦死、事故死、暗殺などで殺され、あるいは複数の皇帝候補が擁立されて帝位を争うことになり、[[235年]]-から[[284年]]のたった50年ほどで、20人の皇帝が交代した。この時代を軍人皇帝時代と呼ぶ。この時代のいわゆる[[軍人皇帝]]は、さながら傭兵部隊の隊長のようなものであり、内政をみる余裕の無かった皇帝も数多い。
 
== 専制君主制 ==
[[284年]]に即位した[[ディオクレティアヌス]]は、軍人皇帝時代を収拾すべく、改革を行った。従来のローマ皇帝は建前としての共和制を遵守していたが、これ以降のローマ帝国は建前も実質も共に[[君主制]]に移行したとされる。これ以降の体制を「専制君主制」([[ドミナートゥス]])と呼び、いわゆる元首政は終焉する(ただしこれは後世における区分であり、また古代末期に関する研究が進んでいる中で「専制君主制」という呼称は使われなくなってきている
 
またこれ以降は「アウグストゥス」の称号は実質的な皇帝の称号となり、また「カエサル」の称号は副帝(次期皇帝)を表す称号となった。
 
ただし、元首政の残滓はその後も継承され、[[東ローマ帝国]]においても「市民と軍隊の信任によって選ばれたローマ皇帝」という建前は生きていた。
 
== 脚注 ==
<references/>
 
== 関連項目 ==
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* [[大統領制]]
* [[半大統領制]]
 
== 脚注 ==
<references/>
 
{{DEFAULTSORT:ふりんきはとうす}}
[[Category:ローマ帝国]]
[[Category:君主制]]
[[Category:アウグストゥス]]