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{{出典の明記|date=2014年3月27日 (木) 02:24 (UTC)}}
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|battle_name=ニハーヴァンドの戦い
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|caption=[[ニーハヴァンド城]]、サーサーン朝末期の抵抗拠点の一つ
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|conflict=ニハーヴァンドの戦い
|date=[[642年]]
|place=[[イラン]]の[[ハマダーン州]]・[[ニハーヴァンド]]
|result=アラブ軍の勝利<ref>''The Expansion of the Saracens-The East'', C.H. Becker, ''The Cambridge Medieval History: The Rise of the Saracens and the Foundation of the Western Empire'', Vol. 2, ed. John Bagnell Bury, (MacMillan Company, 1913), 348.</ref>、サーサーン朝の事実上の滅亡<ref>''A Short History of Syriac Literature'' by William Wright. pg 44</ref>
|result=アラブ軍の勝利、サーサーン朝の事実上の滅亡
|combatant1=[[File:Black flag.svg|22px]] [[正統カリフ]]
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|commander1=[[File:Black flag.svg|22px]]{{仮リンク|サード・ブン・アビー・ワッカース|en|Sa`d ibn Abi Waqqas}}
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|strength1=30000<ref>{{cite web|title=Battle of Nahāvand|publisher=[[Encyclopædia Britannica]]|url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/401756/Battle-of-Nahavand|accessdate=2010-09-19}}</ref>
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|strength2=100000<ref>John Laffin, ''Brassey's Dictionary of Battles'', (Barnes & Noble, 1995), 306.</ref>-150000<ref>[https://books.google.co.id/books?id=J5U3AAAAIAAJ&pg=PA378&dq=conquest+persia+ray&hl=en&sa=X&ei=ZMeqVPipGZCWuASdz4DYCQ&redir_esc=y#v=onepage&q=conquest%20persia%20ray&f=false The Encyclopaedia of Islam, Parts 83-84 edited by Sir H. A. R. Gibb]</ref><ref>Parvaneh Pourshariati, ''Decline and Fall of the Sasanian Empire'', (I.B.Tauris, 2009), 216.</ref>
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'''ニハーヴァンドの戦い'''(ニハーヴァンドのたたかい、アラビア語:معركة نهاوند)は、[[642年]]に[[ニハーヴァンド]](現在の[[テヘラン]]南方)で[[サーサーン朝]]と[[正統カリフ時代]]のイスラーム勢力([[アラブ]]軍)との間に起こった戦い。<ref>{{citation|title=The Afghans|author= Willem Vogelsang|year= 2002|publisher=Blackwell Publishing|url= http://books.google.com/books?vid=ISBN0631198415&pg=PA176&dq=Battle%2Bof%2BNihawand&output=html|ISBN= 0-631-19841-5}}</ref>皇帝[[ヤズデギルド3世]]のサーサーン朝軍はアラブ軍に敗退し、サーサーン朝は事実上滅亡した。この戦いは、イスラーム教徒の間では「勝利の中の勝利」と呼ばれている
 
== 背景 ==
当時、イスラーム成立後の大征服の時代で、正統カリフの下にアラブ・[[ムスリム]]軍は[[アラビア半島]]から領地を拡大していた。一方、{{仮リンク|ホスロー2世|en|Khosrau II}}時代のサーサーン朝は、[[東ローマ帝国]]との長い戦いやその後の王位争いなどで国力を消耗しており、[[カーディシーヤ新興戦い]]([[636年]])でイスの前サーサーン朝はれるなど、退を重ねた。オリエントの大国だったサーサーン朝はすっかり弱体化していた。その後は覆うべく新興のアラブ軍の前なく、[[636年]][[メソポタミア]]でサーサーン朝は敗退を重ね、と正統カリフ勢力の大軍同士がぶかった[[カーディシーヤの戦にはア]]([[636年]])で、イスームに決定的な敗北を喫した。サーサーン朝の本拠地[[イラク]]へ進出したアラブ軍により首都[[クテシフォン]]は陥落し、[[ザグロス山脈]]を越えて[[イラン高原]]に侵攻したアラブ軍とサーサーン朝軍の間で642年、ニハーヴァンドの戦いが起こった。
 
== 戦闘両軍推移兵力 ==
[[アッバース朝|アッバース時代]]の[[ウラマー]]、歴史家で『諸使徒と諸王の歴史』を著した[[タバリー]]によると、ヤズデギルド3世の重臣の{{仮リンク|ペーローズ・ホスロー|en|Piruz Khosrow}}が率いるサーサーン朝軍は、イラン高原中からかき集められた約100000人。対するアラブ軍は約30000人だった。数で勝ったペルシア兵だったが兵の精強さでアラブ軍に劣り、山間の隘路で攻撃を受けて多くの兵を失った。
{{節stub}}
 
== 戦闘 ==
ニハーヴァンドの戦いの経緯については諸説唱えられている。一説によると、アラブ軍は、第2代正統カリフの[[ウマル]]が死んだという偽の情報を流してサーサーン朝軍をおびき出し、勢いづいたサーサーン朝軍騎兵がなし崩し的に追撃を開始してアラブ軍を追ったところを隘路に誘い込んで包囲し殲滅した。
 
サーサーン朝軍は[[封建]]的な領主貴族の軍勢の集まりで、規律も緩みがちだったが、このときばかりは強固な防御陣でアラブ軍を迎えた。アラブ軍は小競り合いをしかけてサーサーン朝軍を優位な地点から誘い出した後に、組織的な退却に移った。これを追いかけるサーサーン朝軍の騎兵の隊列が隘路で細く伸びきったところで、士気旺盛なムスリム軍が一斉に反撃に転じ、混乱したサーサーン朝軍は大損害を被った。激闘になりムスリム軍の指揮官らも戦死したが、サーサーン朝軍は最高司令官のペーローズが乱戦の中で命を落とすなど大敗北を喫した。この敗北で、多くの軍人や文官らはヤズデギルド3世を見捨てた。<ref>Iranian History and Politics: The Dialectic of State and Society By Homa Katouzian, pg. 25</ref>
 
== 戦後 ==
ニハーヴァンドの戦いによってサーサーン朝の軍隊は壊滅し、イラン高原では軍閥が乱立することとなった。皇帝ヤズデギルド3世は[[アムダリヤ川|アム川]]の北方の[[バクトリア]]と[[ソグディアナ]]などに呼びかけて軍を募ろうとし、最終的には息子の{{仮リンク|ペーローズ王子|en|Peroz III}}を[[唐]]にまで派遣したが、実を結ばなかった。
 
帝国東方に逃走して再起を図ろうとしたヤズデギルド3世は、現地辺境総督(マルズバーン)の反感を買い[[ホラーサーン]]の[[メルヴ]]へ逃れたが、総督マーフワイフは皇帝への敵意を隠そうとしなかった。<ref name="Elton L. Daniel pg 67">The History of Iran By Elton L. Daniel, pg 67</ref> [[エフタル]]や[[テュルク系民族|テュルク]]から援軍を得られないまま、[[651年]]にヤズデギルド3世はマーフワイフに暗殺された。<ref name="Elton L. Daniel pg 67" /><ref>History of Islamic Philosophy - With View of Greek Philosophy and Early History of Islam By I. M. N. Al-Jubouri, pg. 142</ref>ペーローズ王子はサーサーン朝を再興し、正統カリフ勢力とその後継者の[[ウマイヤ朝]]に対抗しようとしたが果たせず、亡命先の唐で死去した。
 
== 影響 ==
哲学者で現代ペルシア語文学最高の詩人と言われる[[ムハンマド・イクバール]]は、「イスラームの歴史の中で最も重要な出来事は何かと言えば、間違いなく『ペルシア征服』だろう。ニハーヴァンドの戦いは、アラブ人にペルシアという美しい国を与えただけでなく、古代から続くペルシアの文明を与えたということだ。これはつまり、[[セム族(民族集団)|セム]]と[[アーリヤ人|アーリヤ]]を土台に新しい文明を作る能力がある人々を手に入れたということになる。セムとアーリヤという二つの思想の交わりで受胎したのがイスラーム文明であり、母なるアーリヤから優しさと洗練を、父なるセムからすぐれた精神力を受け継いだと言える。イスラームのペルシア征服に関して言えば、ローマ人のギリシャ征服と同じ意味を見いだすことができる」と評価している。<ref>''Stray Reflections: The Private Notebook of Muhammad Iqbal'', Ed. Dr. Javid Iqbal, pg. 49</ref>
ヤズデギルド3世は[[エフタル]]や[[テュルク]]からの支援を受けようとしたが[[暗殺]]され、彼の息子のペーローズ2世は[[唐]]へ[[亡命]]した。
 
== 関連項目 ==
*[[サーサーン朝]]
*[[ビザンティン帝国]]
*[[正統カリフ]]
*[[ヤルムークの戦い]]
*[[カーディシーヤの戦い]]
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