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== 経歴 ==
[[王僧虔]]の子として生まれた。宋の[[孝武帝 (南朝宋)|孝武帝]]の娘の安固公主(固安公主とも)を妻に迎え、駙馬都尉・秘書郎に任じられた。太尉行参軍・太子舎人・武陵王文学を歴任した。[[チョ淵|褚淵]]が[[司徒]]となると、王志は召されて司徒主簿となった。鎮北竟陵王功曹史・安陸王友・南郡王友を歴任した。入朝して中書侍郎となった。まもなく[[宣城郡]]内史に任じられ、善政で知られた。宣城郡の民の張倪と呉慶が田地を争い、長年にわたって決着をみなかった。王志が赴任すると、宣城郡の父老は郷里の争いを恥じ、張倪と呉慶はともに罪を請うたので、係争地は閑田となった。王志は召されて黄門侍郎に任じられ、まもなく吏部侍郎に転じた。寧朔将軍・[[東陽郡]][[太守]]として出向した。東陽郡の獄中には重罪の囚人が十数人おり、冬至の日に家に帰させ、時節が過ぎると獄に戻る手筈であったが、1人が期限を過ぎても戻らなかった。獄司がこれを報告すると、王志は「これは太守の責任なので、おまえは心配するな」と言った。翌朝、遅刻した囚人が戻ってきて、囚人の妻が妊娠していたので、東陽郡の官吏や民衆たちは王志の差配に感嘆して服した。[[484年]]([[斉 (南朝)|斉]]の[[永明]]2年([[484年]])、入朝して[[侍中]]となり、受けないうちに吏部尚書に転じた。[[崔慧景]]の乱が平定されると、王志は右軍将軍の位を加えられ、臨汝侯に封じられたが、固辞して受けず、右衛将軍を兼ねるにとどまった。
 
[[蕭衍]]が起兵して[[建康 (都城)|建康]]に到着すると、城内では東昏侯[[蕭宝巻]]が殺害され、官僚たちが署名して蕭宝巻の首を蕭衍のもとに送った。王志はこれを聞くと、「冠は弊なりといえど、足に加うべきか」と嘆き、庭の樹木の葉を取って服用し、偽の病に苦しんだふりをして、署名しなかった。蕭衍は王志の署名がないことを喜んで、責めなかった。霸府が開かれると、王志は右軍将軍・驃騎大将軍長史となった。梁国が建てられると、散騎常侍・中書令に転じた。
 
[[天監502年]]元年([[502年天監]]元年)、蕭衍が即位すると、王志は本官のまま前軍将軍を兼ねた。この年のうちに冠軍将軍・丹陽尹に転じた。統治は清廉で穏健であり、煩雑で厳しい施策は除かれた。京師に子のない寡婦があり、姑が亡くなると借金を重ねて葬式を出した。王志はその義をあわれんで、私財を出して償わせた。飢饉の年には毎朝郡門で粥の炊き出しをおこなって施した。3年([[504年]](天監3年)、散騎常侍・[[中書令]]となり、游撃将軍を兼ねた。王志は「[[謝荘]]は宋の孝武帝の世にあって、位は中書令にとどまった。わたしもこれを過ぎてはいけない」と親族たちに言っていた。病と称して賓客の面会を断り、交友も控え目であった。[[前将軍]]・太常卿に転じた。6年([[507年]](天監6年)、雲麾将軍・安西始興王長史・[[南郡 (中国)|南郡]]太守として出向した。7年([[508年]](天監7年)、軍師将軍・平西鄱陽郡王長史・[[江夏郡]]太守に転じた。9年([[510年]](天監9年)、散騎常侍・金紫光禄大夫の位を受けた。12年([[513年]](天監12年)、死去した。享年は54。[[523年]]([[普通 (梁)|普通]]4年([[523年]])に改葬され、安と追諡された。
 
王志は[[草書]]と[[隷書]]を得意とし、「書聖」と称された。