「ミゲル・デ・セルバンテス」の版間の差分

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セルバンテスは、[[イダルゴ]](下級貴族)の家の次男として[[1547年]][[9月29日]]にマドリード近郊の[[アルカラ・デ・エナーレス]]で生まれた。{{要出典|date=2015年9月|父は外科医であったため、セルバンテスは[[コンベルソ]]([[カトリック教会|カトリック]]に改宗した[[ユダヤ教徒]])ではないかという研究者もある。}}
 
少年時代から、道に落ちている紙切れでも字が書かれていれば手にとって読むほどの読書好きであったが、父の仕事がうまくいかず、[[バリャドリード]]、[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]、[[セビーリャ]]と各地を転々とする生活であったので、教育をまともに受けられなかった。だが1564年ごろ、[[マドリード]]に転居したセルバンテスはルネサンスの[[人文主義者|人文学者]]ロペス・デ・オヨスに師事する。オヨスは[[1568年]]に出版された詩文集にてセルバンテスを「わが秘蔵の弟子」と呼び、高く評価した<ref>『新訂増補 スペイン・ポルトガルを知る事典』 203頁(平凡社 新訂版2001年10月)</ref>。[[1569年]]に[[教皇庁]]の特使であったアックアヴィーヴァ[[枢機卿]]の従者として[[ローマ]]に渡り、[[ナポリ]]で[[スペイン海軍]]に入隊するまでの生い立ちについては、あまり解明されていない。この時期に、セルバンテスが[[決闘]]相手に傷を負わせた罪を告発する文書が残っているが、同名の別人かどうかは定かではない。
 
スペイン最盛期の象徴である[[レパントの海戦]](1571年)において被弾し、左腕の自由を失った後も4年間従軍を続け、[[ナヴァリノの海戦]]や[[チュニス]]への侵攻にも参加した<ref>『増補改訂 新潮世界文学辞典』 585頁(新潮社 1990年4月)</ref>。そして本国へと帰還する途中、[[バルバリア海賊]]に襲われ捕虜となる。このとき仕官のための推薦状を持っていたことが仇になり、とても払えない巨額の身代金を課され、[[アルジェ]]で5年間の虜囚生活を送る。この間、捕虜を扇動して4回も脱出を企てるがことごとく失敗。このとき処刑されなかった理由は、推薦状により大物と見られていたためと思われるが、定かではない。三位一体会(キリスト教の慈善団体)によって身請けされ本国に戻ったが、仕官を願うも叶わず、[[1585年]]に最初の作品牧人小説『ラ・ガラテーア』を出版するが、あまり評価されなかった。