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'''ドゥニー・パパン'''('''Denis Papin'''、[[1647年]][[8月22日]] - [[1712年]]頃)は[[フランス]]の[[物理学者]]、発明家である。圧力調理器(「スティーム・ダイジェスタ」)の発明者、[[蒸気機関]]の原理の開発者として知られている。
ロンドン[[王立協会]]フェロー<ref>"[http://royalsociety.org/uploadedFiles/Royal_Society_Content/about-us/fellowship/Fellows1660-2007.pdf List of Fellows of the Royal Society 1660 == 生涯 ==
[[Image:denis_Papin.jpg|thumb|200px|ドゥニー・パパンの肖像画]]
[[ロワール・エ・シェール県]]の[[ブロワ]]に生れた。[[ユグノー]]教徒([[プロテスタント]])である。▼
[[1671年]]には[[パリ]]で、[[クリスティアーン・ホイヘンス]]の助手になった。▼
=== フランスでの生い立ち ===
フランス中部 [[ロワール・エ・シェール県]]の[[ブロワ]]近郊のシトネ(Chitenay)で生まれた。
10人兄弟の4番目で長男であり、
6 歳から伯父の保護のもとでソーミュールのユグノー・アカデミーに通い、1661年から[[アンジェ]]の大学で[[医学]]を学び、1669年に医学の学位を授かった。
1670年に医者としてパリへ移ったが、数学や力学へ興味が捨てきれず、
空気ポンプ(真空ポンプ)などの器具測定器を製作して、
空気、気圧、真空や生物への影響などについて種々の実験を行い、
結果を本として出版した。
[[ゴットフリート・ライプニッツ]]とも交流があった。
=== 最初のイギリス訪問 ===
1675年にはホイヘンスの紹介で[[ロンドン]]に渡り、
1676年から[[王立協会]]で[[ロバート・ボイル]]の助手を務めた。
ボイルが病気になってから、ボイルのほとんどの実験と執筆をパパンがおこなった。
1679年からは王立協会で[[ロバート・フック]]の助手を務めた。
この間、水の[[沸点|沸騰温度]]が圧力に依存することを発見し、
圧力調理器「steam digester」を発明して、1679年に王立協会へ提出した。
この調理器には[[安全弁]]がついており、パパンは安全弁の発明者としても知られている。
1680年には、フック、ボイルとの優れた研究でロンドン王立協会フェローとなった。
1681年にパパンはフランスへ帰ろうとしたが、
プロテスタントへの規制のために帰ることができず、
やむなくイタリアへ渡った。
イタリアでは、1684年までベニスの公立科学アカデミーの実験主任を務めた。
パパンは1684年に再びイギリスの王立協会へ戻り、1687年まで留まった。
フランスでは1685年に、[[ルイ14世]]により[[ナントの勅令]]が廃止された。
=== ドイツ ===
1687年にはドイツのヘッセン州カッセルへ移り、[[フィリップ大学マールブルク|マールブルク大学]]の数学教授となった。
1689年、かれはは加圧ポンプとベローズを用いて、
潜水鐘(diving bell)内に圧力と空気を保持できることを示した
(後の1789年に[[ジョン・スミートン]]がこのアイデア構想を実現した)。
「ダイジェスター」に作用する大気の力の観察をもとに、
また彼は1690年に、シリンダとピストンを用いた[[蒸気機関]]の模型を製作した。蒸気を冷却して真空を作り出すという、大気圧機関の最初となった。
=== 再度のロンドン滞在 ===
1707年に、パパンは妻子をドイツに残してロンドンへ戻った。
1712年までの間、彼は王立協会へ何件か論文を提出したが、
出版されることはなかった。
彼は、王立協会は正当に評価しなかったと強い不満を持っていた。
パパンが最後に残した記録は、1712年1月23日の手紙である。
この年に、パパンは貧窮のなかでロンドンで死去したと考えられている。
== 脚注 ==
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