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{{日本の内閣記事|いしばしないかく|55|石橋湛山|[[1956年]](昭和31年)|12月23日|[[1957年]](昭和32年)|2月25日|画像=[[Image:Ishibashi cabinet.jpg|250px]]|画像説明=石橋内閣}}
 
閣僚の人選が遅れたた
閣僚の人選が遅れた為に臨時代理を総理が兼任する時期があった内閣として知られている。この時期には[[常任理事国]]として戦後の[[国共内戦]]によって中国大陸を失ったが、未だに国際社会から中国政府として認知されていた台北の[[中華民国]]との急速な友好関係深化と固定され始めた[[二つの中国]]問題への対処を巡って与党内で対応が別れていたとも言われている。その後1970年代までは日本国内でこの話題は盛んに議論されていたが、[[田中角栄]]内閣の独断で行われた日中国交正常化以降は、紙面や報道番組でも事実上の国境として機能している[[台湾海峡]]関連の軍事的情報などは一転して報道が手控えられるようになった。そして既に1950年代には日中戦争の戦後処理も済み、日本と国交正常化している[[中華民国]]との断交に反対する自民党内[[福田派]]は、引き揚げ時に旧満州地域で発生した[[通化事件]]などを掲げて[[中華人民共和国]]への乗り換え方針に最後まで反対していた。結果的に中華人民共和国は戦った歴史を持たない日本に対して、戦時賠償を求めるようになり、[[第二次世界大戦]]における戦勝国であり、日本軍と実際の交戦相手である中華民国(台湾政府)の国際的孤立は進んだが、現在でも田中派の流れを汲む議員は親中派が多いと言われている。
 
== 閣僚 ==