「仁科盛信」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
33行目:
 
=== 勝頼時代と最期 ===
信玄の死後は当主となった母兄である勝頼に仕え、[[甲越同盟]]の締結後にも国境警備を務めている。勝頼後期には織田・徳川勢力との敵対が激化し、[[天正]]9年([[1581年]])には対織田・徳川の軍事再編成に際して、本来の居城である信濃国[[森城 (信濃国)|森城]]の他、[[高遠城]]の城主を兼任する。盛信は信濃[[佐久郡]][[内山城]]代の[[小山田昌成]]・[[小山田大学助|大学助]]兄弟と高遠城に籠城する。
 
天正10年([[1582年]])2月、[[織田信長]]の命により織田軍による[[甲州征伐]]が始まると、兵3,000(500とする説<ref name="高遠藩12">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P12</ref>)が籠もる高遠城は信長の嫡男・[[織田信忠]]率いる5万の大軍に包囲された。このとき、信忠は盛信に降伏を勧告したが、盛信は勧告を拒否。降伏の使いに来た僧侶の耳をそぎ落として追い払ったとされる。