「ジェームズ・ブキャナン」の版間の差分

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[[1814年]]から[[1815年]]までペンシルベニア州選出下院議員だった。その後第17から次の4つの議会(1821年3月4日 - 1831年3月3日)に選任された。第21議会では司法部委員会の議長を務めた。[[1832年]]から1834年まで駐ロシア大使を務めた。
 
[[ウィリアム・ウィルキンス (陸軍長官)|ウィリアム・ウィルキンス]]の辞職によって生じた空席を満たすために、ブキャナンは[[1834年]]12月6日民主党の上院議員として選出された。[[1837年]][[1843年]]に再選され、閣僚に任命されたのに伴い[[1845年]]3月5日に辞職した。彼は外交関係委員会の議長だった。(第24から第26議会)
 
ブキャナンは上院議員[[ウィリアム・ルーファス・キング]]と親しい友達で、数年間[[ワシントンD.C.]]で彼と暮らした。また、婚約者が自殺したため、生涯独身を貫いた。
 
1845年から[[1849年]]まで[[ジェームズ・ポーク]]大統領の国務長官を、その後[[1853年]]から1856年まで駐英国大使を務めた。彼は[[1856年]]に大統領に選出され、[[1857年]]3月4日から[[1861年]]3月4日まで在任した。
 
[[1857年]]9月に始まった[[1857年恐慌]]は、[[クリミア戦争]]終結に伴う[[欧州経済領域|欧州市場]]での[[穀物]]価格の急落に端を発する初の世界恐慌となり、[[1859年]]の終結宣言が出された。しかし、その後も経済回復の無い状態は[[南北戦争]]まで続いた。この事も世論が彼に批判的となった理由の一つである。
 
なお、[[1859年]]([[安政]]6年)には日本の[[江戸幕府]]における[[神奈川奉行]]兼[[外国奉行]]で、[[日米修好通商条約]]批准書交換使節([[万延元年遣米使節]])として渡米した[[新見正興]]と謁見した。大統領として特に実績のない彼にとっては、日本史の舞台に登場する数少ない出来事である。
 
彼自身は生涯独身であったが、大統領官邸内での雑事は姪の[[ハリエット・レーン]]([[w:Harriet Lane|Harriet Lane]])に任せており、それが[[アメリカ合衆国のファーストレディ|ファーストレディ]]と呼ばれ、現在の大統領夫人の別名の起源となった。
 
引退後はペンシルベニア州ランカスターの近くの自宅「ウィートランド」で暮らした。[[1868年]]6月1日に死去し、ランカスターのウッドワード・ヒル墓地に埋葬された。子孫の血統は途絶えている。
 
=== 内閣 ===
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