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'''諸葛 {{JIS2004フォント|靚}}'''(しょかつ せい、生没年不詳、{{JIS2004フォント|靚}}は{{CP932フォント|靑}}+見)は、[[三国志|中国三国時代]]に[[魏 (三国)|魏]]・[[呉 (三国)|呉]]に仕えた[[武将]]。[[字]]は'''仲思'''といい、[[諸葛誕]]の末子であり、諸葛頤・[[諸葛恢]]の父である。[[諸葛瑾]]・[[諸葛亮]]とは同族にあたる。
 
[[西晋|晋]]の武帝[[司馬炎]]とは幼なじみであったようである。
 
==生涯==
[[257年]]、父の諸葛誕が[[司馬昭]]に対して反乱を起こしたため、救援を得るための人質として諸葛{{JIS2004フォント|靚}}は呉に送られた。翌年、[[諸葛誕の乱]]が鎮圧されると、父は討ち死にし三族は皆殺しとなった。そのため、行き場を失った諸葛{{JIS2004フォント|靚}}はそのまま呉に留まり、仕官することとなった。
 
孫皓が皇帝に擁立されると、諸葛{{JIS2004フォント|靚}}は重用され呉の官職を歴任し、[[右将軍]]に昇った。
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さらに丁固と共にこれを牛屯で迎え撃って散々に破り、孫謙を保護したが、孫謙は自殺した。(呉歴には孫皓による毒殺とある)
 
[[268年]]、孫皓に合肥攻撃を命じられ、[[丁奉]]と共に[[合肥]]に出撃するが、特にこれといっ軍を進め戦果は記されていない
 
[[280年]]、晋が六方向より大挙して攻めてきたので、諸葛{{JIS2004フォント|靚}}は[[大司馬]]・副軍師として[[丞相]][[張悌]]・[[丹陽]][[太守]][[沈瑩]]・護軍将軍[[孫震 (孫呉)|孫震]]と共に三万の兵を率いて[[長江]]を渡り、晋の城陽[[都尉]]である張喬率いる7千の軍を包囲攻撃をしてこれを降伏させた。
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張悌はそのまま晋軍に突撃し、戦死した。その後、諸葛靚は孫奕らとともに司馬伷に降伏した。
 
呉が晋によって滅ぼされると、司馬炎は昔の誼もあり、彼を[[大司馬]]に取り立てようとした。だ彼は固持して受け入れず、そのまま隠遁してしまった。晋への恨みを忘れず、決して晋の都である[[洛陽]]のある方向を向かなかったという。
 
==逸話==
朝廷において宴会が催された際、孫晧が「あなたの字は仲思というが、なにを思っているのかね?」と訊ねた。諸葛靚は「家にあっては孝行を思い、君主に対しては忠勤を、朋友に対しては信実を思っております。それだけのことでございます」と答えた。孫晧は満足し、諸葛靚の肩を叩き笑いながら去っていった。
 
呉が滅んだ後、司馬炎は諸葛靚とどうにかして連絡を取ろうしたが、彼は取り合おうとはしなかった。司馬炎の叔父司馬伷は、諸葛靚の姉を妃としていた。そこで司馬炎は諸葛妃に頼みこんで諸葛靚を招かせ、諸葛靚が入るのを見計らって、司馬炎も部屋に入った。諸葛靚が廁まで逃げていくのを、司馬炎は追いかけて顔を合わせた。挨拶がおわり酒がめぐったとき、司馬炎が「今日ようやく再会できた。あなたはかつての竹馬の交わりを覚えているかね?」と訊ねた。諸葛靚は「臣は炭を呑んで漆を身に塗る(報復する)ことができず、今日ふたたびご聖顔を拝することになってしまいました」と言うなり、涙をはらはらと流した。それを見ているうちに、司馬炎は恥ずかしくなり部屋を出ていった。
 
==評価==
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==家系図==
子の[[諸葛恢]]は西晋・東晋に仕えた。名臣との呼び声高く、[[尚書令]]にまで栄進した。
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