「春の祭典」の版間の差分

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== 作曲の経緯 ==
[[1910年]]、ストラヴィンスキーは、[[サンクトペテルブルク|ペテルブルク]]で『[[火の鳥 (ストラヴィンスキー)|火の鳥]]』の仕上げを行っていた際に見た幻影(”輪になって座った長老たちが死ぬまで踊る若い娘を見守る異教の儀式”)から新しいバレエを着想し、美術家[[ニコライ・リョーリフ|ニコライ・レーリヒ]]に協力を求めた<ref>{{Cite book|和書|author=[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]|translator=[[塚谷晃弘]]|year=1983|title=ストラヴィンスキー自伝|pages=45頁|publisher=[[全音楽譜出版社]]|location=[東京都]][[豊島区]][[東池袋]]|id=|isbn=4-11-880050-X}}</ref>。
 
『火の鳥』の成功後、バレエ・リュスのための新しい音楽を注文されたストラヴィンスキーがこのアイデアを披露したところ、ディアギレフや[[レオン・バクスト]]もこのテーマに興味を示し<ref>{{Cite book|和書|author=[[リチャード・バックル]]|translator=[[鈴木晶]]|year=1983|title=ディアギレフ ロシア・バレエ団とその時代 上巻|pages=203頁|publisher=[[リブロポート ]]|location=[[東京都]][[新宿区]]|id=|isbn=4-8457-0089-1}}</ref>、ディアギレフの手帳には、1911年度の上演予定作品として『[[牧神の午後 (バレエ)|牧神の午後]]』と『生贄(『春の祭典』)』が併記された<ref>バックル、前掲書、上巻212頁</ref><ref>実際には『牧神の午後』の上演は1912年に延期された。</ref>。
 
ところが、同年9月末に[[ローザンヌ]]のストラヴィンスキーを訪問したディアギレフは、そこで聞いた作曲途中の『[[ペトルーシュカ]]』を気に入り、これを発展させてバレエにすることにしたため<ref>バックル、前掲書、上巻206頁</ref>、『春の祭典』は一時棚上げとなった。
 
[[1911年]]6月に『ペトルーシュカ』が上演された後、『春の祭典』の創作が本格的に開始された。ロシアに帰国していたストラヴィンスキーはレーリヒを訪ねて具体的な筋書きを決定し<ref>『自伝』51-52頁</ref>、レーリヒはロシア美術のパトロンであったテーニシェヴァ公爵夫人のコレクションから古い衣裳を借り受けてデザインの参考にした<ref>バックル、前掲書、上巻247頁</ref>。同じ頃に「春のきざし」から始められた作曲は<ref>小倉重夫『ディアギレフ ロシア・バレエ団の足跡』[[音楽之友社]]、1978年、198頁</ref>、同年冬、スイスのクレーランスで集中的に作曲が進められた結果、[[1912年]]1月にはオーケストレーションを除き曲が完成した。ストラヴィンスキーはこの年の春に演目として上演されることを希望したが、ディアギレフはこれを翌年に延期するとともに、大規模な管弦楽のための作品にするよう要望した。その後、モントローでオーケストレーションが進められ、[[1913年]]に完成した。
 
== 初演までの経緯 ==