「ニコライ・リョーリフ」の版間の差分

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'''ニコライ・コンスタンチノヴィチ・リョーリフ'''('''{{Lang|ru|Николай Константинович Рёрих}}''', [[1874年]][[10月9日]] - [[1947年]][[12月13日]])は、[[ドイツ系]][[ロシア人]]の[[画家]]。美術界と[[法曹]]界で訓練を積んでおり、[[文学]]や[[哲学]]、[[考古学]]に関心を寄せた[[知識人]]でもあった。一般的には、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]の『[[春の祭典]]』の着想・構想・舞台デザインに関わった[[美術家]]として名高く、しばしば[[音楽史]]において[[ドイツ語]]名の'''ニコライ・レーリヒ'''('''''N. Roerich''''')で言及されている。[[サンクトペテルブルク]]で裕福な[[公証人]]の家庭に生まれ、世界各地で流浪の生涯を送った後、[[インド]]の[[パンジャブ]]で最期を迎えた[[コスモポリタン]]である。渡米後は英語風にニコラス('''Nicholas''')と名乗った。[[ヘレナ・レーリヒ|イェレナ]]夫人ともども[[神智学]]の[[導師]]として活動し、共同で[[アグニ・ヨーガ協会]]を設立した。息子のユーリ・リョーリフは[http://ignca.nic.in/nl002501.htm ジョージ・ディ・レリック]の英語名で[[チベット学]]の研究者となり、息子の[[スヴャトスラフ・リョーリフ|スヴャトスラフ]]は画家・建築家となった。
{{翻訳中途|1=[http://en.wikipedia.org/wiki/Nicholas_Roerich 英語版 "Nicholas Roerich" 22:31, 8 March 2007 (UTC)]|date=2008年6月}}
[[Image:Nicholas Roerich, Guests from Overseas.jpg|right|333px|thumbnail|海を越えて来た客 <small>(1899年)</small>]]
{{Portal|美術}}
'''ニコライ・コンスタンチノヴィチ・リョーリフ'''('''{{Lang|ru|Николай Константинович Рёрих}}''', [[1874年]][[10月9日]] - [[1947年]][[12月13日]])は、[[ドイツ系]][[ロシア人]]の[[画家]]。美術界と[[法曹]]界で訓練を積んでおり、[[文学]]や[[哲学]]、[[考古学]]に関心を寄せた[[知識人]]でもあった。一般的には、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]の『[[春の祭典]]』の着想・構想・舞台デザインに関わった[[美術家]]として名高く、しばしば[[音楽史]]において[[ドイツ語]]名の'''ニコライ・レーリヒ'''('''''N. Roerich''''')で言及されている。[[サンクトペテルブルク]]で裕福な[[公証人]]の家庭に生まれ、世界各地で流浪の生涯を送った後、[[インド]]の[[パンジャブ]]で最期を迎えた[[コスモポリタン]]である。渡米後は英語風にニコラス('''Nicholas''')と名乗った。[[ヘレナ・レーリヒ|イェレナ]]夫人ともども[[神智学]]の[[導師]]として活動し、共同で[[アグニ・ヨーガ協会]]を設立した。息子のユーリ・リョーリフは[http://ignca.nic.in/nl002501.htm ジョージ・ディ・レリック]の英語名で[[チベット学]]の研究者となり、息子の[[スヴャトスラフ・リョーリフ|スヴャトスラフ]]は画家・建築家となった。
 
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