「ウィリアム・マッキンリー」の版間の差分

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==初期の政治経歴==
戦争に続いて、マッキンリーはオールバニの[[オールバニ・ロー・スクール]]で法律を学び、[[1867年]][[弁護士]]の資格を得た。彼はオハイオ州[[カントン (オハイオ州)|カントン]]で弁護士を開業し、[[1869年]]から[[1871年]]までオハイオ州[[スターク郡 (オハイオ州)|スターク郡]]の検察官を務めた。[[1876年]]6月、実業家の[[マーク・ハンナ]]が経営する鉱山において33名の坑夫がストライキを行った。ハンナはスト破りを投入し、坑夫達は暴動を起こしたため投獄された。マッキンリーは坑夫の弁護を担当し、一人を除いて全員を釈放させた。坑夫達は弁護費用をようやくかき集め、マッキンリーへの支払いに訪れたが、マッキンリーはそれを受け取らなかった。
 
マッキンリーは軍の上官であったラザフォード・ヘイズの選挙活動に参加し、共和党における活発な活動家となった。ヘイズは全国の注目を集めたオハイオ州知事選挙に当選し、知事に就任した<ref>{{Cite web|url=http://www.ohiohistory.org/onlinedoc/ohgovernment/governors/mckinley.html |title=William McKinley: 1892-1896 |publisher=''Ohio Governors'', Ohio Historical Society |accessdate=2008-03-07}}</ref>。
 
マッキンリーはヘイズの助けを得、第45、第46、第47議会にオハイオ州からの共和党連邦下院議員として選出された([[1877(1877]] - [[1882年]])。第47議会では法律修正委員会の議長を務めている。第48議会では民主党の[[ジョナサン・H・ウォレス]]と議席を争ったものの落選している。その後再び第49、第50、第51議会に選出される([[1885(1885]] - [[1891年]])。[[1889年]]から1891年まで歳入委員会の議長を務めた。1890年に彼は[[マッキンリー関税]]を提案した。同関税は史上最高の税率であった。政治的な反動で1890年の選挙は民主党が地すべり的勝利を得、共和党は大きく議席を減らした。マッキンリーは一部に不人気であった関税と、[[ゲリマンダー]]のため300票という僅差で第52議会に落選した。彼は[[1884年]][[1888年]]および[[1892年]]に共和党全国大会の代表だった。
 
==オハイオ州知事==