「ヘンリー5世 (イングランド王)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Abtelp (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
35行目:
| 母親 = [[メアリー・ド・ブーン]]
}}
'''ヘンリー5世'''('''Henry V''', [[1387年]][[9月16日]] - [[1422年]][[8月31日]])は、[[ランカスター朝]]の[[イングランド王国|イングランド]][[イングランド君主一覧|]](在位:[[1413年]] - 1422年)。[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]]と最初の妻[[メアリー・ド・ブーン]]の子。[[クラレンス公]][[トマス・オブ・ランカスター|トマス]]、[[ベッドフォード公爵|ベッドフォード公]][[ジョン・オブ・ランカスター|ジョン]]、[[グロスター公]][[ハンフリー・オブ・ランカスター|ハンフリー]]の兄。[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]の父。
 
若年の時から戦いに参加し、父を助けて[[ランカスター朝]]成立期の国内平定に貢献した。
 
1413年[[3月20日]]に即位すると積極的な大陸経営を目指し、[[14141415年]]、[[フランス王国|フランス]]国内のブルゴーニュ派とアルマニャック派の内紛に乗じて休戦中であった[[百年戦争]]を再開して、同年[[1415年]]10月25日]]の[[アジャンクールの戦い]]で大勝し、フランス軍主力を壊滅させた。
 
[[1420年]][[6月2日]]、[[フランス王国君主一覧|フランス]][[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]の娘[[キャサリン・オブ・ヴァロワ|キャサリン(カトリーヌ)]]と結婚、[[トロワ条約]]を締結して自らのフランス王位継承権を認めさせ、ランカスター朝の絶頂期を築いたが、2年後に急死した。
 
== 生涯 ==
=== 若き日のヘンリー ===
ヘンリー5世は[[ウェールズ]]の[[モンマス]]にあるモンマス城のゲートハウスで生まれた。父は即位前の[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー・オブ・ボリングブロク]]こと後のヘンリー4世、母は第7代{{仮リンク|レフォード伯|en|Earl of Hereford}}{{仮ンク|ハンフリー・ド・ブーン (第7代ヘレフォード伯)|label=ハンフリー・ド・ブーン|en|Humphrey de Bohun, 7th Earl of Hereford}}の次女で当時16歳の[[メアリー・ド・ブーン|メアリー]]である。彼が生まれた時期のイングランドは父の従兄・[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]の統治下にあり、王位継承からはかなり離れていた。そのため出生日さえはっきり分かっておらず、[[1386年]]か[[1387年]]の8月9日か9月16日の説が有力とされている。
 
幼少期は[[オックスフォード大学]][[クイーンズ・カレッジ (オックスフォード大学)|クイーンズ・カレッジ]]で勉強したが、[[1398年]]、12歳の時に父がフランスに追放されたため短期で終わる。既に母も他界していたヘンリーを国王リチャード2世は引き取り、優遇した。
 
再起を図る父の率いるランカスター派が[[1399年]]にイングランドに上陸すると、リチャード2世は捕らえられてしまう。こうして父が[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]]として即位し、彼も[[プリンス・オブ・ウェールズ]]に叙せられる。そして1399年11月10日に[[ランカスター公]]に叙された<ref group="注">他にも[[コーンウォール公]]・[[チェスター伯]]・[[アキテーヌ公]]に叙された。実際に管理を始めたのは[[1400年]]10月からである。</ref>。
 
数年ののち、彼はイングランド軍の一部の指揮を実際に執るようになった。[[1403年]]の[[オワイン・グリンドゥール]](オウェイン・グレンダワー)の反乱に際しては自分の軍隊を率いてウェールズに向かい、さらにこの反乱に加担した[[ヘンリー・パーシー (ホットスパー)|ヘンリー・パーシー]](ホットスパー)に対しても、取って返して父の軍と合流し、{{仮リンク|シュルーズベリーの戦い|en|Battle of Shrewsbury}}で打ち破った<ref group="注">16歳の王子ヘンリーの顔に矢が当たり、瀕死の重傷を負ったのはこの時の事である。通常の兵士であれば見放されてしまうような傷であったが、ヘンリーは最高の治療を受け、数日の後にはそれ以上傷が広がらないような形で矢尻を抜くことに成功した。ヘンリーの顔には永久に消えない傷が残ったが、何とか一命を取り留めることはできた。ロイル、P98 - P99。</ref><ref>森、P200 - P202、君塚、P157 - P158。</ref>。
 
=== 王子としての役割とヘンリー4世との対立 ===
[[1408年]]まで、ヘンリーはオワイン・グリンドゥールによるウェールズの反乱の鎮圧に注力した。その後、父の健康状態の悪化によって次第に彼の政治的権威が高まってきた。[[1410年]]1月からは叔父にあたる{{仮リンク|ヘンリー・ボーフォート (枢機卿)|en|Henry Beaufort|label=ヘンリー・ボーフォート}}と[[トマス・ボーフォート (エクセター公)|トマス・ボーフォート]]兄弟に助けられつつ、実質的な政権の支配者になった。
 
ヘンリー王子の政策は国内政策・対外政策ともに国王と異なっていたため、[[1411年]]11月の御前会議には王子は呼ばれなかった。のみならず、翌[[1412年]]1月に評議会のメンバーが入れ替わり、ボーフォート兄弟更迭され代わりに父が信任する人物が入れられた。その中に弟のクラレンス公トマスもいたためヘンリー4世とクラレンス公の関係は一時悪化した。ボーフォート兄弟が父の退位を画策していた可能性はあるが、この親子が対立するのは政治方針のみであったり、後に両者は和解している。そしてボーフォート兄弟に対立する勢力は王子ヘンリーの中傷に躍起になった。
 
百年戦争期の当時のフランスでは国王シャルル6世は精神異常のため事実上政務を執ることが不可能な状態であり、ブルゴーニュ派とアルマニャック派に分かれて内戦状態にあったため、とても外敵からの自国の安全を保てる状態にはなかった。ヘンリー4世は大陸にある[[アキテーヌ地域圏|アキテーヌ]]の保持を第一に考え、外交は消極的で両派から援軍を持ちかけられても露骨な肩入れは避け、1411年10月にブルゴーニュ派の味方として2000人を派兵、[[1412年]]8月にアルマニャック派と手を組み4000人のイングランド軍を派遣したが、どちらも小規模ですぐ撤退したため戦局に影響を与えなかった。対するヘンリーは積極的にフランスへ介入するためブルゴーニュ派との関係を重視、内乱に付け込んで北フランスを征服することを目標にしていたため、これが父から遠ざけられる元となった。
[[ファイル:Henry V of England - Illustration from Cassell's History of England - Century Edition - published circa 1902.jpg|thumb|150px]]
 
1413年3月20日にヘンリー4世が亡くなると、翌日にはヘンリー王子が王位を継承し、4月9日に戴冠式が行われた<ref>佐藤、P127、城戸、P106 - P110、ロイル、P105 - P113、P116 - P119、君塚、P157 - P158。</ref>
 
=== ヘンリー5世の内政 ===
[[ファイル:Henry V of England - Illustration from Cassell's History of England - Century Edition - published circa 1902.jpg|thumb|150px]]
ヘンリー5世は全ての内政問題に直接関与し、そして次第に自身の影響力を高めていった。また、その即位当初から自らをイングランドという連合国家の長と位置付け、過去の国内対立を水に流す方針を明確にした。
 
まず父と対立した[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]を再度丁重に埋葬し、リチャード2世が在位していた間の[[推定相続人]]であるマーチ伯{{仮リンク|エドマンド・モーティマー (第5代マーチ伯)|en|Edmund Mortimer, 5th Earl of March|label=エドマンド・モーティマー}}をお気に入りとして手元に置き、さらには爵位・領土を没収されて苦しんでいた貴族たちには爵位・領土を順次回復していった。ホットスパーの遺児[[ヘンリー・パーシー (第2代ノーサンバランド伯)|ヘンリー・パーシー]]も[[ノーサンバランド伯]]を継承した。
 
ヘンリー5世にとって最大の内政課題は、当時異端として迫害されていた[[ロラード派]]の不満分子に対する対処であった。[[1414年]]1月に[[ジョン・オールドカースル]]の反乱を未然に防いだヘンリー5世は内政基盤を堅固なものとした。[[1415年]]6月に{{仮リンク|サウザンプトンの陰謀|en|Southampton Plot|label=サウザンプトンの陰謀事件}}<ref group="注">'''サウザンプトンの陰謀事件''':[[ライオネル・オブ・アントワープ]]の曾孫に当たるマーチ伯{{仮リンク|エドマンド・モーティマー (第5代マーチ伯)|en|Edmund Mortimer, 5th Earl of March|label=エドマンド・モーティマー}}を王位につけようと、義兄の[[ケンブリッジ伯]][[リチャード・オブ・コニスバラ]]らが企てたが、当のマーチ伯が国王ヘンリー5世に通報したため失敗に終わった事件。ロイル、P126 - P127。</ref>を除いてはこれ以降の彼の統治期に大きな内政問題は発生していない。
 
また、ヘンリー5世は政府公式文書での[[英語]]の使用を促進した。ヘンリーは350年前の[[ノルマン・コンクエスト]]以来初めて、個人書簡に英語を使用した王であった<ref group="注">[[ノルマン朝]]、[[プランタジネット朝]]のイングランド王は元来フランスの地方領主であり、フランス人としての意識が強い君主が多かったため、それまでは[[フランス語]]を使用していた。佐藤、P139 - P141、君塚、P163。</ref><ref>森、P202 - P206、ロイル、P121 - P128、君塚、P159。</ref>。
 
=== 外交とフランス遠征 ===
==== フランスへの要求 ====
内政問題が鎮静化したことで、ようやくヘンリー5世は外交問題に注力できるようになった<ref group="注">次の世代の歴史家はヘンリー5世が外交問題に着手した理由を「国内宗教政治家の目を国内問題から大陸問題にそらさせるため」としているが、この説には根拠がないと思われる。</ref>。当時[[フラ最初にブルゴーニュ派、次にアルマニャック派から接触があり、それぞれ相手を倒すためイス王国|フランス]]でドの加勢を必要とし、ヘンリー5世に向けて婚姻関係と領地割譲を提案した。ヘンリー5世国王アルマニャック派と交渉しつつ密かに政権から追われたブルゴーニュ派の首領である[[シャル6世 (フランス王)ゴーニュ公国|シャル6世ゴーニュ]]は精神異常のため事実上政務を執ることが不可能な状態であり、さらに[[ブルゴーニュ公一覧|公]][[ジャン1世 (ブゴーュ公)|ジック派ン1世]](無怖公)も近付き、ブルゴーニュ派ら明確な回答は得らて内戦状態にあなかったためアルマニャック派の交渉外敵からの自国の安全平行線保てる状態にはなか辿った。
 
ヘンリー5世は
* フランス政府が反乱を起こしたオワイン・グリンドゥールに援助していたことへの賠償
* ブルゴーニュ派・アルマニャック派それぞれに支援を与えていたことへの代償
という理由で、領土割譲とフランス王位を要求した。これを拒否したフランスアルマニャック派に対し、ヘンリー5世は長期休戦状態にあった[[百年戦争]]を再開し、フランス遠征を行った<ref>森、P206 - P207、佐藤、P127 - P128、城戸、P113 - P120、ロイル、P128 - P130、君塚、P159 - P160。</ref>
 
==== 1415年の遠征 ====
1415年[[8月11日]]にフランスに向けて出航したヘンリー5世のイングランド軍は、[[8月1312]]に北フランスに上陸し、{{仮リンク|アルフルール|en|Harfleur}}(現[[セーヌ=マリティーム県]])要塞を包囲し、[[9月22日]]にはこれを陥落した({{仮リンク|アルフルール包囲戦|en|Siege of Harfleur}})。予想以上に長引いた包囲戦で疾病・負傷者が増えたイングランド軍は、補給可能な[[カレー (フランス)|カレー港]]に陸路移動を開始した。これを追撃しようとするアルマニャック派を中心とするフランス軍を10月25日の[[アジャンクールの戦い]]で撃破し、多くのフランス貴族を捕虜とした。ブルゴーニュ派からの攻撃はなくイングランド軍は11月に帰国、ロンドンで凱旋した。
 
アジャンクールの戦いでアルマニャック派の幹部は戦死するか捕虜となり、彼らは過酷に扱われ長期間イングランドに幽閉された。この中に[[オルレアン公]][[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル]]と[[アルテュール3世 (ブルターニュ公)|アルテュール・ド・リッシュモン]]などがおり、ヘンリー5世が死ぬか、長い年月を経た末でなければ釈放されなかった。また、ヘンリー5世は継母(父の後妻)でリッシュモンの実母[[ジョーン・オブ・ナヴァール]]に対しても邪険に扱ったとされる<ref>森、P207 - P209、エチュヴェリー、P87 - P97、佐藤、P128 - P130、城戸、P121 - P122、ロイル、P130 - P137、君塚、P160 - P161。</ref>。
 
==== 外交と制海権 ====
[[イギリス海峡]]の制海権を確固たるものにするためには、フランスだけでなく、フランスと同盟するヨーロッパ各国を海峡から締め出す必要があった。
 
アジャンクールの戦いの後、[[神聖ローマ皇帝]][[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]はイングランドとフランスの和平調停のためヘンリーのもとを訪れた。ヘンリー5世のフランスに対する要求を緩和するように説得するためである。ヘンリー5世は皇帝を歓待し、[[ガーター勲章]]まで授与した。ジギスムントは返礼としてヘンリーを[[ドラゴン騎士団]]に登録した。数ヶ月後の[[1416年]][[8月15日]]、イングランドのフランスへの賠償請求権を認めたジギスムントは{{仮リンク|カンタベリー条約 (1416年)|en|Treaty of Canterbury (1416)|label=カンタベリー条約}}を締結してイングランドを去った<ref>城戸、P122 - P123、ロイル、P139 - P142。</ref>
 
==== 1417年の遠征 ====
イングランド国王と神聖ローマ皇帝との間につながりができたことで、[[1417年]]の[[教会大分裂]]の収束に道筋がつき、フランスと大陸諸勢力との分離が進んだ。これを好機として、アジャンクールの戦いの疲弊を癒したヘンリー5世は再び、さらに大規模な進攻作戦を開始した。
 
8月に始まったイングランドの征服活動で[[カーン]]など[[ノルマンディー]]地方の沿海部はまたたくまに占領され、[[ルーアン]]の町も[[1418年]]7月から[[パリ]]から分断された状態で攻め立てられた。フランス政府はブルゴーニュ派とアルマニャック派の抗争で機能していなかった。ヘンリー5世は巧みに両派を争わせつつ、9月に[[シェルブール=アン=コタンタン|シェルブール]]を、[[1419年]]1月にルーアンを陥落させた。
 
抵抗したノルマンディーのフランス人は厳しく罰せられた。城壁からイングランド人捕虜の首をぶら下げたアラン・ブランシャールは瞬く間に処刑され、イングランド国王を[[破門]]したルーアンの[[カノン (宗教)|司祭]]ロバート・ドゥ・リベットはイングランドに送られて5年間牢獄に入れられた。
 
[[1419年]]8月、イングランド軍はパリ城外まで達した。ここに至って王太子[[シャルル7世 (フランス王)|王太子シャルル]]と[[ブ(後のシャゴーニュ公国|ブゴーニュ公]][[ジャン17 ()とブルゴーニュ公)|ジャン無]]はイングランドに対して共闘すべく和解の交渉を開始したが、[[9月10日]]の交渉の場で王太子の支持者が無公を暗殺した(1419年9月10日)。そこで新ブルゴーニュ公[[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ3世]](善良公]]とブルゴーニュ派はヘンリー5世のイングランド軍と協同することにし、6ヶ月の交渉の末[[1420年]]5月に[[トロワ条約]]が結ばれた。この条約の中で、ヘンリー5世がフランスの王位継承者・摂政となることが認められた。

そして[[1420年]]6月2日]]、ヘンリー5世国王シャルル6世の娘カトリーヌ([[キャサリン・オブ・ヴァロワ]])と結婚した。6月から7月にかけて{{仮リンク|モントロー|fr|Montereau}}<ref group="注">モントロー([[:en:Montereau, Loiret|Montereau]]):現在の[[ロワレ県]]の自治体</ref>の城に押し寄せ、陥落させた。さらに11月には[[ムラン]]を占領し、間もなくルーアンに滞在した後1421年2月にイングランド帰国した<ref>森、P209、エチュヴェリー、P103 - P105、P109 - P113、P115 - P119、佐藤、P130 - P132、P136 - P138、城戸、P123 - P139、ロイル、P142 - P149、君塚、P161 - P163。</ref>
 
==== 1421年の遠征と急死 ====
イングランド滞在から4ヶ月後の[[1421年]]6月10日]]、ヘンリー5世は自身最後の遠征のためフランスに向けて出航した。これは南フランスに抵抗の拠点を移した王太子とアルマニャック派の勢力があなどれないからで、フランス駐在のイングランド軍の指揮官だった弟のクラレンス公が[[ボージェの戦い]]で討ち取られていたため報復の意味もあった。7月から8月にかけてヘンリーの軍は[[ドルー]]を制圧し、[[シャルトル]]で同盟軍を支援した。その年の10月には[[モー (フランス)|モー]]を包囲し、翌1422年5月2日に攻略した。
 
ところが[[1422]]8月31日、ヘンリー5世はパリ郊外の[[ヴァンセンヌの森]]で、モー包囲戦の際に感染していた[[赤痢]]で死亡した。34歳であった。わずか数か月前に、息子[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]の名前で弟の[[ベッドフォード公]][[ジョン・オブ・ランカスター|ジョン]]をフランスの摂政に任命したばかりであった。ヘンリー5世としてはトロワ条約の締結の時、病弱なフランス王[[義父シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]よりは長生きする自信があったため「次のフランス王」と取り決めたが、結局ほんの2ヶ月ではあるがシャルル6世の方が長生きすることになった。
 
キャサリンはヘンリー5世の亡骸をロンドンに運び、[[1422年]]11月7日]]に[[ウェストミンスター寺院]]に埋葬した。ヘンリー5世の死後、キャサリンは[[1437年]]に死ぬまで[[ウェールズ]]人の侍従[[オウエン・テューダー]]と長い間関係密接な生活を送ったが(密かに結婚したかも知れない)を持っていた。彼らの孫こそが後に[[テューダー朝]]を開いた[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]の祖父母である<ref>森、P209 - P211、エチュヴェリー、P120 - P123、佐藤、P142 - P144、ロイル、P149 - P156、君塚、P163。</ref>
 
== シェイクスピア史劇 ==
111 ⟶ 117行目:
== 系図 ==
{{イングランド王室ランカスター朝}}
 
== 注釈 ==
{{reflist|group="注" }}
 
== 脚注 ==
<div style="font-size:90%">
<references/>
 
</div>
== 参考文献 ==
* [[森護]]『英国王室史話』[[大修館書店]]、1986年。
* [[ジャン=ポール・エチュヴェリー]]著、[[大谷暢順]]訳『百年戦争とリッシュモン大元帥』[[河出書房新社]]、1991年。
* [[佐藤賢一]]『英仏百年戦争』[[集英社新書]]、2003年。
* [[城戸毅]]『百年戦争―<small>中世末期の英仏関係</small>―』[[刀水書房]]、2010年。
* [[トレヴァー・ロイル]]著、[[陶山昇平]]訳『薔薇戦争新史』[[彩流社]]、2014年。
* [[君塚直隆]]『物語 イギリスの歴史(上) <small>古代ブリテン島からエリザベス1世まで</small>』[[中央公論新社]]([[中公新書]])、2015年。
 
== 外部リンク ==
155 ⟶ 171行目:
| years = 1409年 - 1412年
| before = [[トマス・アーピンガム|トマス・アーピンガム卿]]
| after = [[トマス・フィッツラン (第12代アランデル伯)|トマス・フィッツラン]]
}}
{{End box}}