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[[画像:Concertgebouw.jpg|250px|thumb|コンセルトヘボウ]]
'''コンセルトヘボウ'''('''Concertgebouw''')は[[オランダ]]・[[アムステルダム]]にある[[コンサートホール]]。ボストンの[[シンフォニーホール]]、ウィーンの[[ウィーン楽友協会]]と同様に、戦前からの姿をそのままに伝えている音響の優れたコンサートホールとして広く知られている。
 
== 概要 ==
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== プログラム ==
[[クラシック音楽]]のみに偏らず、[[ジャズ]]や[[民族音楽]]など幅広いジャンルのコンサートが催されている。おおよその比率はクラシック5:ジャズ3:その他2 くらいである。近年ロック系のプログラムは稀だが過去には[[ザ・フー]]や[[ピンク・フロイド]]のコンサートも催されたことがある。
 
ほとんどのプログラムにはスポンサーが付いており、そのためチケット代は通常20~30ユーロ程度と安価に抑えられている。
 
またほとんどのチケットには当日限りGVB([[アムステルダム市営交通会社]])全線無料の権利が付いている。トラム・バスが各6路線ずつ通っており便利なため、普段は運転手以外にネクタイを見かけることすら稀なトラム・バスにあって、コンサートの前後の時間に限って盛装の男女がひしめくという、オランダならではの光景が発生する。
 
オランダ社会の特質によって厳格なドレスコードは無く服装によって入場を断られることは無いが、カジュアルでは居心地が悪かったりフォーマル過ぎて浮くこともあるので演目や時間帯によって各自で判断されたい。
 
時には23:59開演のジャズコンサートなど風変わりな出し物もある。
 
ツアーシーズンである夏季を除く期間、ほぼ毎水曜昼に無料のランチコンサートが催されている。新進演奏家を起用したオリジナルのプログラムや[[トライアウト]]的な位置付けのものが多いが、時には大ホールの[[ゲネプロ]]を兼ねた事も多く、無料とは言え質は決して低くはない。
 
日曜日には多くの教会で礼拝・日曜学校の終わる11時頃から家族向けの安価なコンサートも開かれている。
 
ホールそのものの見学ツアーやプロによる器楽レッスンなどコンサート以外の催しも多彩である。
 
== 建築として ==
それまでに市内にあった音楽ホールの老朽化を受けて新しいホールの建設を期した「コンセルトヘボウ協会」は1881年に発足した。メンバーの中には[[アムステルダム国立美術館]]等を設計したP.J.H.カイペルスもいたが、コンセルトヘボウの設計には直接携わっていない。1883年に2,000人収容の大ホールと併設する小ホールという課題で実施されたコンペの結果、[[オランダ乗馬学校]]を設計した[[:nl:Adolf Leonard van Gendt|A.L.ファン・ヘント]]のプランが採用された。後にこの二人は共同で[[アムステルダム中央駅]]の設計に携わる。
 
ヘントによる、[[ネオルネッサンス建築|ネオ・ルネサンス]]と[[新古典主義建築|新古典主義]]を折衷した威容ある[[ファサード]]が特徴的なホールは1888年4月11日に落成した。
 
音楽堂に関する特別な知識を持たないヘントの設計した大ホールの空間は体育館や田舎中の講堂のような直方体であり、あまつさえ片側の上層部分に外光を取り入れるための大窓が並ぶという音楽堂として致命的に非常識なものであったが、何故かオーケストラを入れて演奏してみると奇跡的に素晴らしい残響効果が起きた。
 
アムステルダム市内はほとんどが[[帯水層]]上の干拓地であるが、特に中心市街の南郊として後期に干拓され地盤の軟弱なこの地区では1万トンを越す重量を持つホールは2,186本の木の支持杭をもってしても当初より慢性的に地盤沈下に悩まされていた。
 
倒壊寸前の危機的状況を迎えた1983年、帯水層の下にコンクリート基礎を流し込み、支持杭も400本に及ぶ現代的な金属製のものに置き換える大工事が行われた。
 
その後1988年に、東翼(向かって左)に更なる補強や旧構造の保護も兼ねて2層建ての鉄柱と大ガラスによる不釣合いに現代的な新エントランスがP.デ・ブラインによる設計で増築された。この部分にはインフォメーション・チケットカウンターやカフェも入っている。
 
== 外部リンク ==