「丸山城 (石見国)」の版間の差分

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{{デフォルトソート:}}{{redirect|丸山城 (石見国)||丸山城 }}
{{日本の城郭概要表|
img = File:Maruyamacastle03.JPG|
img_capt = 石見丸山城遠景|
img_width =250px|
name = 丸山城|
pref = 島根県|
ar_called = |
struct = 輪郭式[[山城]]|
tower_struct = 不明|
builders = [[小笠原長旌]]|
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rulers = [[小笠原氏#石見小笠原氏|石見小笠原氏]]|
reject_y = 慶長5年([[1600年]])頃?|
remains = 曲輪、石垣、礎石、竈跡、堀切等|
cultural asset = 無し|
rebuilding things = 無し|
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== 概要 ==
=== 沿革 ===
[[ファイル:Maruyamacastle02.JPG|サムネイル|石見丸山城二の丸石垣]]
[[天正]]13年([[1585年]])に石見小笠原氏当主[[小笠原長旌]]が築いた。石見小笠原氏はそれまで[[川本温湯城|温湯城]]を居城としていたが、[[毛利氏]]との和睦後に所領替えをされたため、居城を[[湯谷城]](弥山城)へと移していた。天正10年([[1582年]])に、この地に[[築城]]を開始。3年後の天正13年(1585年)頃に完成したと言われている。
 
[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]の後、小笠原氏は毛利氏の防長移封に従い、丸山城も廃城になったと思われる。廃城時、もしくは[[寛永]]14年([[1637年]])の[[島原の乱]]の後に破却が行われたと推測される。
== 構造 ==
 
標高428mの円山頂上部を主郭とする連郭式の中世[[山城]]で、石見国では非常に珍しい総[[石垣]]の[[城郭]]であった。最高所には[[本丸]]、その下に[[曲輪|西の丸]]が控えており、掘立柱建物跡の痕跡や[[かまど]]跡があることからからこの本丸と西の丸が城主らの平素の居住空間であったと推定されている。また、防衛施設としては虎口が認められるが、それ以外の場所の石垣は低く、山上にありながらも居館としての役割を重視されていたと推測される。
=== 構造 ===
[[ファイル:Maruyamacastle01.JPG|サムネイル|石見丸山城主郭よりの展望]]
標高428mの円山頂上部を主郭とする連郭式の中世[[山城]]で、石見国では非常に珍しい総[[石垣]]の[[城郭]]であった。最高所には[[本丸]]、その下に[[曲輪|西の丸]]が控えており、掘立柱建物跡の痕跡や[[かまど]]跡があることからからこの本丸と西の丸が城主らの平素の居住空間であったと推定されている。また、防衛施設としては虎口が認められるが、それ以外の場所の石垣は低く、山上にありながらも居館としての役割を重視されていたと推測される。
 
防衛施設としては虎口やそれに付随する門跡や堀切があり、郭も10程度は認められるが、全体的に石垣の高さは低い。櫓や天守閣等の防衛施設も存在せず、安土桃山期の城郭としては縄張りも単調である。これは山上にありながらも居館としての役割を重視されていたためと推測される。
 
== 参考資料 ==