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メッカの東25kmにはムハンマドが最後の説教を行った[[アラファト山]]がある。ここは巡礼の際、巡礼月9日に必ず訪れねばならない場所であり、途中のミナーの谷のテントで一泊した後、アラファト山で巡礼者は立礼(ウクーフ)を行う。帰路も再びミナーの谷で一泊するため、ミナーの谷には2km四方にわたってサウジアラビア政府が冷房つきの作り付けのテント村を整備しており、谷はテントによって埋め尽くされている。この膨大なテント群は大巡礼の5日間しか使用されない<ref>「メッカ」p142 野町和嘉 岩波書店 2002年9月20日第1刷</ref>。ミナーからアラファト山への道には8本の道路と2本の歩行者専用道路があるが、巡礼の日は大混雑となる。この混雑を緩和するため、2010年11月には新交通システムのメッカ巡礼鉄道がこの巡礼路に完成した(後述)。この道路には[[熱射病]]対策用の[[スプリンクラー]]や[[街路樹]]、[[トイレ]]や照明などが完備されているが、これらも大巡礼の日以外は使用されない。
近代以前のメッカにおいては、水は3つの方法によって供給されていた。ひとつ目は[[ザムザムの泉]]に代表される井戸であり、二つ目は
== 気候 ==
[[アラビア半島]]の西部、[[紅海]]に面した[[ヒジャーズ]]地方の中心都市である。[[砂漠気候]]で、一年を通じてほとんど雨は降らない。[[砂漠]]に取り囲まれているが、[[ザムザム
| url = http://www.pme.gov.sa/Makkah.htm | title = Weather averages for Mecca
| accessdate = August 17, 2009
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=== イスラーム以前 ===
[[ファイル:Mecca-1850.jpg|thumb|250px|1850年頃のメッカ全景図]]
メッカの町は古くより存在し、[[2世紀]]に書かれた[[クラウディオス・プトレマイオス]]
|author = 後藤明
|authorlink = 後藤明 (歴史学者)
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}} </ref>。
そのムハンマドが生まれたとされる[[570年]]頃にメッカは[[エチオピア]]軍による侵攻を受けている。当時、海洋貿易の権益を確保するため紅海からアラビア海にかけての沿岸地方への勢力拡大を目指していた[[東ローマ帝国]]は、同じキリスト教国である[[エチオピア]]の[[アクスム王国]]を後援して[[525年]]に[[イエメン]]の[[ヒムヤル王国]]を滅ぼして支配下に置くなど、アラビア半島に勢力を伸ばしていた<ref name=ohta/>。エチオピア軍がメッカに侵攻した目的は、キリスト教国であったアクスム王国が多神教の神殿であるメッカのカアバ神殿を破壊して教会を建てるためだったとも<ref name=kosugi/>、イエメンから[[ガザ]]に至る陸上交易路の中間に位置していたメッカの商業都市としての重要性に目をつけたとも<ref name=ohta/>、商業により繁栄していたメッカの資産を奪うためだったともいわれている<ref>{{Cite book|和書|author=[[井筒俊彦]]|title=コーラン(下)|year=1958|page=355|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4-00-338133-5}}</ref>。巨大な[[軍象]]を率いて侵攻するエチオピア軍に大してメッカの人々は恐怖に陥ったが、エチオピア軍はメッカに入ることなく壊走した。クルアーンでは鳥が運んできた石のつぶてに当たったエチオピア兵に[[疱瘡]]ができ、疫病が蔓延したとされており、この描写からエチオピア軍に[[天然痘]]が蔓延したのではないか推測されている<ref name=kosugi/>。このとき、メッカのクライシュ族はフザーア族と同盟を組んでエチオピア軍に対抗したとされる<ref name=takahashi/>。
=== イスラームの誕生 ===
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