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|名前 = 黄文雄
|画像 = [[ファイル:Peter Huang.jpg|250px]]
|画像の説明 = [[2013年]][[10月19日]]、[[台北市]]の[[国立台湾大学]]にて
|出生 = [[1937年]][[10月2日]]
|死去 =
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|和名 = こう ぶんゆう
|発音 = フアン ウェンション
|台湾語 =
|英文 = Peter Huang
}}
 
'''黄 文雄'''(こう ぶんゆう、[[1937年]][[10月2日]] - )は、[[台湾]]の[[政治家]]・[[独立運動家]]・[[人権擁護者|人権活動家]]。
 
[[日本]]在住の[[評論家]][[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]と生年・政治的な主張が似ており、しかも双方とも[[台湾独立建国連盟]]の関係者であるため、混同されることも多いが、全くの別人である。
 
== 略歴 ==
1937年、[[日本統治時代 (台湾)|日本統治時代]]の[[新竹]]生まれ。[[1964年]]、[[アメリカ合衆国]]の[[ピッツバーグ大学]]の[[奨学金]]を獲得したのを機に渡米、[[コーネル大学]]社会学研究所で博士課程取得に励むかたわら、台湾独立建国連盟に所属し、台湾独立に向けた活動を行っていた。
 
[[1970年]][[4月24日]]、訪米中の[[蒋経国]]を[[ニューヨーク]]の[[プラザホテル]]で狙撃するという[[暗殺]]未遂事件を起こし、[[ニューヨーク市警察]]に逮捕される。その後、[[保釈]]中に逃亡し、[[1996年]]まで地下に潜伏した。この暗殺未遂事件は[[台湾独立運動|台湾独立]]派からは「義挙」として賞賛されることが多い一方で、[[中華人民共和国]]政府など台湾独立に対して批判的な勢力からは「台湾独立派が[[テロリズム|テロリスト]]にしかすぎない」証拠であると非難されることが多い。
 
1996年[[4月]]、台湾へ帰国し、[[1998年]][[1月]]には台湾人権促進会の会長に就任し、[[2000年]]には[[陳水扁]]政権のもとで[[中華民国総統府]]国策顧問も務めた。
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== 外部リンク ==
{{Commonscat|Peter Huang}}
* [https://www.facebook.com/wsphuang 黄文雄のFacebookフェイスブック]
 
{{DEFAULTSORT:こう ふんゆう}}
 
[[Category:台湾の政治家]]
[[Category:台湾独立運動]]
[[Category:台湾独立建国連盟の人物]]
[[Category:台湾の政治家]]
[[Category:台湾の亡命者]]
[[Category:台湾の革命家]]
[[Category:人権活動家]]