「藤山陽子」の版間の差分

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== 来歴・人物 ==
横浜市[[本牧]]間門に生まれ、戦時中は[[平塚市]]へ疎開、終戦後は間門へ戻り、元町小学校4年生の時に金沢八景へ引っ越す。[[1957年]]、六浦中学校を卒業、[[1959年]]、女学校である私立明倫高等学校(現・[[横浜清風高等学校]])3年生の春、陽子を含め修学旅行に参加しない残留組は平常通り授業があり、そんなある日の通学途中「ぶしつけに失礼ですが、チヨッとお話ししたいことがあるのです」と声を掛けてきた作曲家の[[木下忠司]]に「テレビの音楽を担当しているんだけど、テレビに出たくはありませんか?」と誘われる、やがて木下は陽子の両親に主旨を告げ、間もなく実兄である映画監督の[[木下恵介]]を紹介、彼は陽子に「テレビもいいけど、映画に出てみないか?」と話す、この言葉で心を動かされた陽子に父は「木下恵介先生に一切をお任せして、お前に出来ることならやってみてはどうなんだい!!」と促す、さっそく夏休みを利用し「今日もまたかくてありなん」で映画初出演、明けて[[1960年]]1月の冬休みに同じく木下恵介作品「春の夢」に出演、卒業後に出演した[[テレビ朝日|NET]]の「新三等重役」がきっかけで東宝ニュータレントに応募<ref>以上は近代映画 近代映画社 1962年8月号 122-125頁。</ref>、応募総数1万5千人の中で只1人全審査員の満票を以って合格、翌[[1961年]]4月に東宝俳優養成所を卒業、5月1日付で東宝へ入社、<ref>以上は小説倶楽部 桃園書房 1961年10月号 巻頭ポートレイト。</ref>。こうして東宝ニュー・タレント1期生となった陽子は<ref>同期に[[桜井浩子]]がいて引退後も親しい仲である。子どもに一時期、桜井浩子のことを「怪獣のおばちゃん」と呼ばせていた。</ref>同年夏に[[加山雄三]]主演の『大学の若大将』で銀幕デビュー、東宝は[[司葉子]]に続く都会派で上品な美貌の正統派女優として「魅惑の新星」と名づけ大々的に売り出した。目鼻立ちがはっきりした高貴でノーブルな風貌の美人で、清純な令嬢役や[[BG]](BG(現在の[[OL]])役が多く『銀座の若大将』など[[若大将シリーズ]]、[[ハナ肇とクレージーキャッツ|クレージーキャッツ]]映画、[[社長シリーズ]]など東宝の娯楽映画に数多く出演。映画では特に際立った代表作がなかったものの、テレビでは[[マドンナ]]の女教師、生徒の姉役として[[夏木陽介]]主演の『[[青春とはなんだ]]』、続編である[[竜雷太]]主演の『[[これが青春だ]]』[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で放映された青春学園シリーズに出演したことで新境地を開拓し[[お茶の間]]の人気を得た。この『青春とはなんだ』の映画版である『[[これが青春だ!]]』、『でっかい太陽』、『燃えろ!太陽』の一連作にも夏木と共に出演している。1967年、結婚を機に引退した。
 
==エピソード==